dimanche 27 mars 2011

考えるということ、あるいは一人になること




Voltaire
(21 novembre 1694 - 30 mai 1778)


そのことをはっきり意識したのは、もう15-6年前のテレビ討論だった。それは 「患者よ、がんと闘うな」 を出したばかりの近藤誠氏とどちらかのがん病院の臨床家との間で行われていた。終始落ち着いていた近藤氏に対し、外科か放射線科の先生は時に感情的になり反論していたが、まともな反論にはなっていなかった印象が残っている。なぜそうなるのかを考えてみると、一つのことに思い至った。それは近藤氏が自らの中から出た疑問をもとに実際の記録に当たり、それを自らの責任において判断したのに対し、臨床家の先生はその領域で是とされていることを如何にうまくやるのかにだけ注意が集中していたのではないか。さらに言うと、自らの属する社会(学会)の空気の中にいて、その中から発言していたからではないのか。この場合、無意識に行われているよりは意識的である可能性が高いと想像できる。一人で考えない場合には、同じ意見を共有する人がたくさんいるということで自らの責任についての意識が弱くなるか、全く失われてしまう。つまり、後者の場合には自らの行いを外から見るという視点が欠落していて、ここの定義で言えば考えていないのである。この臨床家だけではなく、専門化の著しい今日においてはほとんどの人が考えていないと言ってよいだろう。考えるためには 「そこ」 から出て、一人になければならないのである。そうしなければ、事の重大さを何も感じることができないだろう。自らが学ぶということもないだろう。

このことを思い出したのは、今回の地震・津波・原発災害においても同じような対比が認められたからである。癌の根治治療を原発に置き換えれば、状況がよく見えてくる。原発の危険性を考え、訴え続けてきた人たちがいる。彼らの姿を見ていると、実に落ち着いている。自らの中から出た疑問をもとに調べ、自らの責任において判断した考えを語っているからだろう。原発を推進してきた人たちの話を見聞きするところまで行っていないが、文字で見る限り皆さんが学会や多数の空間にいると感じており、その中に身を委ねているように見える。そのような状況では結論が先に来ていて、最悪の場合にはそれに合わせる論理を組み立てるという技術の問題にしかならない。一人になると迫ってくるであろう問題が自らの中に反射しないだろう。したがって、その問をどう解決しようとしたのかという思索の跡が見えてこない。考えていないのである。これから今回の災害の検証が行われるだろうが、その時にこのような精神運動が伴わなければわれわれは何も学ぶことなく、また同じことを繰り返すだろう。

これは 「専門と責任の関連を考える」 (2010-05-16)で触れた問題とも繋がる。今の世界を取り巻く問題の根にこれがあるように見える。しばしば使われる思索の結果としての哲学ではなく、その過程を意味する哲学がこれから必須になる。それは個別の問題に入る前の態度をわれわれに教えてくれるからである。それなくして生き生きとした国の再生は難しいように思える。




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