dimanche 28 juillet 2013

オッカムのほうき "Ockham's Broom"、あるいは偶には大掃除を


最近、Youtube からメールが届くようになった

おそらく、これまでにわたしが観たものから好みを計算して送ってくるのだろう

それが余りにも正確なので驚くほどである

恐ろしい時代に入ってきた

その中に毎回一つか二つ探りの品を入れてくる

潜在的な嗜好を狙ってのことだろうか


 先日、その中の一つをそれほどズレてはいないので覗いてみた

ボストンにあるタフツ大学のダニエル・デネット (Daniel C. Dennett, 1942-) さんの講演

演題は "What Should Replace Religions?"

 「何が宗教に取って代わるのか」

ほとんど右から左だったが、一つだけ反応した言葉があった

それが今日のタイトルになった 「オッカムのほうき」(Ockham's Broom)

哲学に詳しい方は 「オッカムの剃刀」 (Ockham's razor) には馴染があるはずである

 オッカムのウィリアム (William of Ockham, 1285-1347)が唱えた哲学的推論のための原則である

現代的に解釈すれば、より単純な仮説がより正しい、

あるいは競合する仮説がある時には、推論が少ない仮説を選ぶべきである、となる

贅肉を剃刀で削ぎ落とすという含みだろうか

常に正しいわけではないが、よく出される考え方である


ところで、ほうきの方はどうだろうか

剃刀が14世紀ならば、こちらは現代である

哲学的科学者と言えるシドニー・ブレナー(Sydney Brenner, 1927-)さんが考えたことのようだ

いつも興味深いことを考えている

その意味するところは、不都合な事実をカーペットの下に掃いて隠すためのほうきで、その行為も含んでいるのだろう

科学の領域で説明できない事実がある時、それをないものとして論を進め、発表しようとする

このようなことは科学に限らず、至るところで行われていることは厭というほど見せつけられてきた

偶にはカーペットをひっくり返して掃除をすると、重要な発見に繋がることがあるはずである


免疫学に例を取れば、免疫反応を増強するために使われていたアジュバントがある

抗原とともに細菌などが入ったアジュバントを投与しなければ、抗体がなかなか作られない

長い間そのことには目を瞑っていた研究に対して、それは免疫学の "dirty little secret" だと指摘した人物がいた

 残念ながら脳腫瘍で若くして亡くなったチャールズ・ジェインウェイ(Charles Janeway, Jr., 1943 – 2003)さんである

そのお蔭で進化の早い時期から存在する細胞がまず活性化しなければ免疫反応が起こらないことが明らかになった

この研究はジュール・ホフマン(Jules Hoffmann, 1941-)さんらの2011年のノーベル賞の切っ掛けになったのである


オッカムのほうきのように意図的ではなくても、大切なものがどこかに隠れている可能性はある

特に、一ところに長くなると、とんでもないところから興味深いものが出てくることがある

偶には、文字通りの大掃除が必要になるだろう

大発見に繋がる何かが顔を出さないとは誰も言えない







mardi 16 juillet 2013

第6回 「サイファイ・カフェ SHE」 のお知らせ


The Sixth Sci-Phi Cafe SHE (Science & Human Existence)   

テーマ: 「腸内細菌を哲学する」   

 2013年9月10日(火)、11日(水) 18:20-20:00 

いずれも同じ内容です  


SHEの趣旨と今回の内容
この世界を理解するために、人類は古くから神話、宗教、日常の常識などを用いて きました。しかし、それとは一線を画す方法として科学を編み出し ました。この試みでは、長い歴史を持つ科学の中で人類が何を考え、何を行ってきたのかについて、毎回一つのテーマに絞り、振り返ります。そこでは、目に見える科学の成果だけではな く、その背後にどのような歴史や哲学があるのかという点にも注目し、新しい視点を模索します。このような 営みを積み上げることにより、最終的に人間という存在の理解に繋がることを目指すスパンの 長い歩みをイメージしています。
今回は、われわれと共に存在し、進化の過程を共にしてきた微生物について考えま す。最近の研究から、われわれの中に存在する体の細胞の10倍の数の微生物は、消化・ 吸収、代謝、免疫のみならず精神活動などの生理機能に不可欠な役割を担ってい ることが明らかにされつつあります。この結果は、われわれは閉じた自律的存在ではなく、外に開かれたエコシステムであることを示唆しています。「彼ら」の存在は、「われわれ人間 」、「生物学的個体」、「オーガニズム」の意味するところを改めて問い掛 けてきます。これらの問題を考え始めるための枠組みについて講師が30分ほど話した後、約 1 時間に亘って意見交換 していただき、懇親会においても継続する予定です。
会 場
カルフールC会議室

東京都渋谷区恵比寿4-6-1 
恵比寿MFビルB1 
電話: 03-3445-5223
   
参 加 費  
一般の方: 1,500円 (コーヒー/紅茶が付きます) 
大学生: 無料(飲み物代は別になります)   

終了後、参加者の更なる意見交換の場として懇親会を開く予定です。 

参加をご希望の方は、希望日と懇親会参加の有無を添えて 
she.yakura@gmail.comまでお知らせいただければ幸いです。




dimanche 14 juillet 2013

パリから見えるこの世界 (6) 「クラーク精神から近代科学の受容の背後にあるものを考える」



雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 「パリから見えるこの世界」 の第6回エッセイを紹介いたします



医学のあゆみ (2012.7.14) 242 (2): 213-216, 2012

 ご一読、ご批判いただければ幸いです




jeudi 11 juillet 2013

科学における哲学教育をどう考えるのか


今朝、科学から哲学に入り、そのインターフェースにいる者としての素直な気持ちとともに目覚める

その目覚めには、前回の記事での問題提起が関係しているはずである

それと、この領域での議論をこれだけのスケールで初めて聴いたことである
 
その結果、次第に固まりつつある考えは、あくまでもインターフェースに留まるということ

専門家になることを避けること

狭い領域での語りに終わることを避けることである

その上で、科学あるいは科学の外に向けて、哲学の有用性、有効性を語ること

その方が自分のような立場の人間には向いているのではないか

そんな決意とも思える考えとともに、朝はいた


Prof. Michael Ruse (1940-; Florida State Univ.)


午前中のセッションは、朝の気分にぴったりの「生物学の哲学と教育」であった


この本の出版に合わせて、執筆者が語るラウンド・テーブルである

序を書いた生物学の哲学の領域では大御所になるマイケル・ルース教授がどっしりと控えている

 大部分の方が、哲学の中の何を教えるべきなのかを議論していた

やや専門的なのである

ひとつ面白いと思った意見があった

それは、科学における細かい考え方を教えるより、3人の科学者について語ると科学の営みが分かるというもの

その3人とは、ダーウィンアインシュタインチョムスキーであった


科学の教師からは、何をではなく、どのように教えるべきかの議論が有用ではないかとの指摘があった

 ミネソタ大学のアラン・ラヴ(Alan Love)さんからは、次のようなコメントがあった

大学の早い時期に科学の中での統合だけではなく、人文科学、哲学などを絡めたプログラムが必要になる

 しかし、明確な意識がなければこのようなプログラムをカリキュラムに入れる余地がないほど厳しい状態である

おそらく、日本の状況も変わらないと想像される

昔は医学の専門教育が始まる前の2年間は教養課程であったが、今は専門の講義が侵食していると聞いている

一つの意識を持つに至るまでの省察の時間がないためだろう

そのため、大きな流れに身を任せるしかなかった結果なのだろう


 このような状況を変えるには、どうすればよいのだろうか

大前提として、なぜこのような教養課程や統合プログラムが必要になるのかについての考えを深めることだろう

その上で、そのような理解が拡がり、コンセンサスになる必要がある

どれだけ説得力のある考えが出てくるのかにもよるだろうが、相当に時間がかかりそうである



 わたしは、この領域に入ってから気になっていることについて皆さんのご意見を訊いてみた

 その根底には、哲学・歴史の蓄積に触れていれば、もっと豊かな研究者生活になったのではないかとの思いがある

そのため、科学者に哲学を語ることの重要性を認識しているつもりである

そこで知りたかったのは、科学者の教育をどう考えるのか、そのための妙案はあるのか、である

この点に関して、哲学者の方々は意外と諦めムードの印象があった

より正確には、自らの専門に忙しく、学生の教育の方が喫緊の問題であるのか、あまり考えていないようであった

ラヴさんは、将来を見越して、科学者になる前の若い世代の教育を充実すべきとのお考えであった

 終了後、ラヴさんとお話した結論は、自らが考えて妙案を捻り出すしかないというところに落ち着いた


今日の印象は、以下のようになるだろう

科学者への語り掛けは、意外に哲学の盲点になっているのではないか

哲学とのインターフェースから科学に向けて働きかけることは、わたしにとって最も自然で適切な道なのかもしれない


そんな感触とともに会場を後にした



mardi 9 juillet 2013

何のために、誰のために哲学するのかを考えよ


7月7日から12日まで南仏はモンペリエで開かれている会議 "ISHPSSB 2013" に参加している

International Society for History, Philosophy and Social Studies of Biology が隔年に開いている会である

2週間ほど前に庵からの脱出を目的に参加を決めた

今日で3日目が終わったところだが、いろいろな再会や貴重な会話があり、参加して正解であった


先ほど終わったラウンド・テーブルで、一考に値する問題が指摘されていた

下の本が3月に出たことを受けて、執筆者がそれぞれの主張をするという趣向の会であった


その問題は、モントリオール大学の哲学者フレデリック・ブシャール(Frédéric Bouchard)さんから指摘された

上の本の編者でもある

そのポイントは、科学者ではない哲学者がどういう立場で哲学するのかを明確にしなければならないということ

逆に言うと、一つの問題を論じる時に、その立場が自ずと明らかになるということであった

つまり、生物学に何らかの寄与をしようとして哲学しているのか

生物学の現場とは関係なく、自らの興味に基づいて哲学するのか

生物学を哲学することにより、形而上学への問題提起を探るのか

生物学の哲学の存在意義を考えよということになる


これは、科学の立場にいた者にとっては至極当たり前のことになる

科学者が哲学を敬遠するのは、そこで何が行われているのかわからないということがある

そして、それがわかったとしても、科学に役に立つのかという疑問が付いて回る

哲学など頭になくても科学者としては十分にやっていけるというのが、一般的な受け止め方である

わたし自身もそうであったから、よくわかるのである


自己満足に終わらせないためには、少なくとも自らの対象に対しては常に開いておく必要があるだろう

科学の現場で何が行われ、何が問題になっているのかに敏感でなければならないということだろう

これが意外に難しいのだ

なぜなら、他の領域を知らずに一つの道に入ってしまうと、その中の一般的な考え方に教化されるからである

それ以外は目に入らなくなり、それを基にキャリアを組み立てることになるからである

そこに亀裂を入れることが必要になる

哲学の領域も高度に専門的になっている

今や哲学の領域においても、省察の学としての哲学的思考が求められる所以である