vendredi 8 août 2008

日本学術会議 「基礎研究支援拡充」 に関する提言を読んで

アテナ (Pallas Athéna)
Zeus の娘
古代ギリシャの知性、芸術、工業の象徴にして
智慧と真実への愛(philosophie)の化身

先日、日本学術会議がまとめた基礎研究充実に向けた提言を読む機会があった(提言「我が国の未来を創る基礎研究の支援充実を目指して」 日本学術会議 科学者委員会学術体制分科会 2008年8月1日)。基礎研究が応用研究に押されて将来の日本の研究が先細りになることを危惧していることが伝わってくる。その方向性については賛成である。ただ、一つだけ違和感を覚えるところがあり、それがきわめて重要であると考えているので敢えてここで取り上げることにした。

それは、この提言の考えている科学の内容である。そこでは科学を「知ること」、すなわち知的創造活動の総体と定義している。私の目から見ると、この基本の捉え方が強く言うと余りにもお座なりで思索のあとが窺えない。ここの定義こそもう少し具体的でなければならないだろう。科学という活動の意味を捉え直す必要があるのではないだろうか。それが万人に理解されて始めてすべてが動き出すような気がする。

そのためには科学の発祥の地、その元になる哲学の発祥の地で起こったことから始めなければならないだろう。そうすると、科学がどういう営みなのかということが、より具体的に分かるようになる気がする。それは、広く人間が持つ、持っていなければならないだろうものの見方から始ったのではないだろうか。科学の基本的な性質は、何ものにも囚われないものの見方、根本から考えるものの捉え方、曖昧なものを排除する批判的なものの見方を教えるものであると私は理解している。歴史を辿ると、科学が「知る」という結果ではなく、そこに至る過程の「ものの見方・考え方」を学ぶことであることが明らかになるはずである。これこそ今われわれがあらゆる分野で必要としているものではないだろうか。

そういう理解を促すためには、大学教育はもちろんだが、それ以前の教育において文系・理系を超えた基本的な考え方、「科学精神」の存在を理解することから始めなければならないだろう。その精神を学ぶためにこそ科学が最も有効であることを認識する必要があるのではないだろうか。科学を実験室の中だけに閉じ込めた見方をしていると、いつまでも今の状況から抜け出せないように思う。つまり、上に述べた考えを持っている人が偶然役人や政治家、ジャーナリストや芸術家や会社員になり、あるいは偶然に実験室に入る状況でなければ、次の世代も現在と同じようなものの見方しか受け継がれないような気がする。古代ギリシャで起こったことを過去のこととして歴史の中に閉じ込めておくのではなく、そこから取り出しその精神を現代に蘇らさなければならないだろう。その基本があって初めて、科学が本来の輝きと求めている「重厚」さを持ってくるのではないだろうか。

今回の提言は現役の科学者が研究に忙しい合間を縫って成されたものと想像され、敬意を表さなければならないだろう。ただ、科学という大きな問題を論じるには、ここでも言及されている文理に跨る成果を生かすことが求められるように思う。いずれにしてもこの問題は単に狭義の科学の将来を議論するために矮小化されるべきことではなく、日本社会の根底に横たわる大きな課題の実体として捉えるべきものでもあると考えている。文理を超えた広い議論が起こることを期待したい。





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