日本で手に入れたリチャード・ファインマンさん(1918 - 1988)のこの本を、先日こちらで読む。
R.P. ファインマン「科学は不確かだ!」(岩波現代文庫、2007年)
1963年の三夜に亘る講演から起こしたもので、訳もこなれていて読みやすい。科学が持っている特徴についてダイナミックに語っている。臨場感があり、楽しい読みになった。特に目新しいことはなかったが、一ヶ所だけ印象に残るところがあった。
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過去二〇〇年ばかりのあいだに科学は急速な発展を遂げ、そのスピードはいまや最高潮に達したと言えるでしょう。ことに生物科学はもっとも驚くべき発見の寸前にあります。それが何かは僕には言えないけれども、わからないからこそ胸が躍るのです。一個また一個とひっくり返しては、その下に新しいものを発見する興奮は、もう何百年ものあいだつづいてきましたが、それが今ますます高まりつつある、その意味では現在はたかしかに科学的時代です。ふつう誰も知らないことですが、科学者はそれを、「英雄の時代」とまで呼んでいます。
この時代を後で歴史の一環として振り返ってみたとしたらどうでしょう。ほとんど何も知らなかったところから一変して、以前に知られていたよりはるかに多くのことを知るようになったのですから、もっとも劇的な驚異の時代だということは一目瞭然です。ただし科学が芸術や文学、人間の精神的姿勢や理解などに大きな役割を果たしていないという点では、僕は現代を科学的時代だとは思いません。ギリシャの英雄時代には、戦士の英雄を謳った詩がありました。また中世の宗教的時代には、芸術は宗教と直接つながっており、人々の人生観は宗教的見解と密接に結びついていたものです。それはまさしく「宗教時代」でした。そういう見地に立てば、今は決して科学時代とは言えません。
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この観察は私のものとよく重なる。ここでは一つだけ問いかけてみたい。日常生活の中で科学的に考えようという観点からわれわれの営みを振り返ることがどれだけあるだろうか。身の周りで起こっていることを少しだけ醒めた目で見れば、答えは一目瞭然だろう。これは科学的な良心という問題にも繋がるもので、それは本来科学者だけに適応されるものではないはずだ(科学が日常に真に組み込まれているとすればだが)。このように一般の人と科学の間の溝は、想像以上に深くて広い。
この問題を考える時、現状では科学の側から動き出さなければ状態は変わらないだろう。ここでも触れているが、科学者の役割として、単に新しい発見を目指したり、科学の最新の成果を分かりやすく伝えるだけでは足りないのではないだろうか。科学が本来持っている精神(それはわれわれの営みを豊かにすることが多かったのではないかと思うが)を科学の外にいる人に知らせることこそ、最も求められるのではないだろうか。科学の知識を教え込まれても、科学の外にいればどこか別世界の出来事で、その場限りに終わってしまう。それをいくら続けても科学が社会に根付くとは思えない。どのような人の日常にも大切なものとしての科学、それは科学的なものの見方ではないかと思う。それを広めなければファインマンさんの言う真の「科学時代」は訪れないだろう。
では、この問題をどのように進めるのか。名案は浮かばないが、まず教育になるのだろうか。科学精神と言った場合、哲学精神とも重なるところがある。そうであれば、子供の時から一人ひとりが自由に疑問を発し、意見を交わす環境が用意されていなければならないはずである。ところが、それとは逆のことが行われているという話を先日の日本で何人かの方から伺った。これは文化の問題になるので、長期的な視点に立って見直さなければ根本的には何も変わらないようにも見える。科学が芸術、文学の芯に影響を与えるようになるのはその先の話ではないだろうか。
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