samedi 18 mai 2013

科学と宗教: ジョン・レノックス vs. リチャード・ドーキンスの対論を味わう





オックスフォードのクリスチャンと無神論者の対論を二つ聴く

2007年アメリカのアラバマ大学と2008年オックスフォード大学で行われたもの

数学者ジョン・レノックス(John Lennox)さんとリチャード・ドーキンス(Richard Dawkins, 1941-)さんが登壇している

いずれも言葉の正確さとどこまでも論理的であろうとするイギリス人の心、討論の醍醐味をたっぷり味わうことができる

おそらく、国の知性を代表するお二人なのだろう

日本ではなかなか経験できない時間となった


オックスフォード大学でのお二人の主張を掻い摘んで言うと、次のようになるだろうか

まず、レノックスさんのお考えから

この素晴らしい世界が何の導きもなしに生まれたとは信じられない

そこには神という創造者がいるに違いない

宗教は善悪、正義、真理、許しなどの価値を提供している

神のない世界を主張する人は、究極の正義をどこに見ているのか

還元主義的なやり方ではこの世界が益々理解できなくなるだろう

ダーウィンの言うことはわからないではないが、生命の起源や意識などは説明できていない

実体である神がそこで特別の仕事をしたはずである

 16-17世紀に近代科学が生まれたが、その原動力はキリスト教の神であった

ケプラーやガリレオは神の創造物を理性的に理解しようとし、数学でそれが可能になると考えたのである

東洋で科学が生まれなかったのは、キリスト教の存在が関係している

キリスト教は決して反科学的ではなく、科学そのものである



これに対して、ドーキンスさんは次のように主張する

この世界は何の目的もないランダムな過程から生まれたものである

自動的で、盲目的で、そこには導きもない

もちろん、今の科学で理解できていないことがあることは認める

しかし、そこに神を持ち出しても何の説明にもならない

むしろ、その神はどうしてできたのかというもう一つの複雑な問題を生むだけである

確かに、この世界には希望も正義もない

だが、それが真実なのだ

キリストが存在したのかどうかは些細な問題である(後で、存在したと認めてもよいと訂正していた)

そんなことは気にせず、人生を楽しみなさいと言いたい(後で、人生を十全に生きなさいと訂正)

この宇宙には価値はない

決定論の世界であり、理性的で理解可能な世界である

理解不能な世界に生きることを想像できますか

ダーウィン以前は、すべて魔法か神の力で片付けられてきた

科学がすべてを説明できていないし、結局説明できないかもしれない

しかし、神に逃げ込まず、諦めないことが重要である



この問題の入門としては、この対論に問題のエッセンスは尽きているようにも見える

対論を聞いた現時点でのわたしの結論は、次のようになるだろうか

科学はあくまでも科学の中で理解できるように歩みを最後まで続けて行く

しかし、科学では如何ともしがたい価値の問題がこの世界にはある

それを宗教に求めるのかどうかは別にして、人間として考えなければならない点である

科学者の枠を超えなければならないと考えている 

確かに、神が科学を進めるモーターになることもあっただろう

しかし、それを科学の中に持ち込むことは避けなければならない

少なくともわれわれが生きている間に科学がすべてを解決するとは考えられない

であれば、科学に任せてしまうのではなく、常に科学を超えた視点を持っておく必要があるのではないか











jeudi 16 mai 2013

これまでの 「サイファイ・カフェ SHE」 の話題




2011年11月

科学の問題を科学の中での議論に留まるのではなく、哲学や歴史の視点からも省みる試みを始めました

趣旨はこちらにあります
 
 最初は 「科学から人間を考える」 試みと銘打っていましたが、最近 サイファイ・カフェ SHE 改名

この3月には第5回を終えることができました

参加された皆様には改めて感謝いたします


今回、講師の発表内容をまとめ、サイトに公開しました

 ご一読、ご批判いただければ幸いです

よろしくお願いいたします

 
第1回 (2011.11.24-25)
科学と哲学を考える」 
発表内容 

 第2回 (2012.4.17-18)
科学の決定論と人間の自由を考える」 
発表内容

  第3回 (2012.9.11-12)
正常と病理を考える」 
発表内容 

  第4回 (2012.11.29-30)
脳と心、あるいは意識を考える」 
発表内容 

第5回 (2013.3.26-27)
生気論を考え直す」 
発表内容



lundi 13 mai 2013

パリから見えるこの世界: 第4回 「フランスの大学で哲学教育を受け、文化に根差すということを考える」


雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中の 「パリから見えるこの世界」 の第4回エッセイを紹介いたします。

医学のあゆみ (2012.5.12)241 (6): 486-490, 2012

 
 ご一読、ご批判いただければ幸いです。
 よろしくお願いいたします。




dimanche 5 mai 2013

大陸哲学と分析哲学、わたしの場合


こちらに来る前、フランスのものを読み、その思考に違和感を覚えたことについては、これまで何度も触れている。ひょっとすると、そのことからすべてが始まっていると言っても過言ではないのかもしれない。違和感を増強した背後には、アメリカで染み付いたアングロ・サクソン的なものの見方があったこともほぼ間違いないだろう。この違いをどう表現すればよいのだろうか。これまでに書いてきたものの中に、いろいろな表現で出てきているはずである。

一般に、フランスやドイツの哲学を大陸哲学、アングロ・サクソンの哲学を分析哲学というが、それは地理的な差ではなく、それぞれの伝統的なやり方についての名称になっている。ここで、両者の違いをアメリカで大陸哲学をやっているバベット・バビッチ(Babette Babich, 1956-)さんの近著La Fin de la pensée ? Philosophie analytique contre philosophie continentale 2012)を頼りに簡単に纏めてみたい。

哲学とは考えること、思想、思考に関するという点では両者に差はない。大きく言ってしまうと、分析哲学は明晰さ、論理、答え、解決を求めるのに対して、大陸哲学は答えではなく問いの意味を考える傾向がある。先日取り上げたネガティブ・ケイパビリティとも関係しそうな 「曖昧さに耐える能力」 が求められるのである。大陸哲学が多元論的で、分析哲学を排除することはない寛容さがあるのに対して、分析哲学は大陸哲学を拒否する。両者の間には単なるスタイルや気質の違いだけではなく、対立の可能性が内在している。 

もう少し詳しく見ると、大陸哲学は哲学的問い掛けを問い掛けとして開いた状態にあることを認める。答えを提供することよりは、厳密で批判的な問い掛けを提供することに興味を持っている。問いを出すに値するのはなぜなのかについて省察しようとする。哲学の誕生以来ある問題の全体を再検討することを目指すもので、現実世界を感受し、生きることに関係する哲学を生み出す素地がある。自らの正当性の根拠を科学に求めないため、科学についての省察が可能になる。

対する分析哲学は、対象を分解し、非現実的で間違った問題を排除、否定し、最終的に分析できない問題がないようにする。ある意味では縮小に向かう概念とも言える。そのことにより、「こと」 を前に進める発展・進歩の思想も含まれてくる。この哲学がその正当性を科学に求め、科学とともにあること、科学だけが問題を解決するとする科学主義の傾向があることを考えると、よく理解できる。永遠の問題など言っているのは、明晰さの欠如であり、科学の欠如、知性の限界であると考えるのである。

分析哲学が優位にある世界でのよい哲学とは、明快に議論されているもので、必然的に理解しやすいものになる。明晰さと平明さは今日の大学においても、公共においても重要になっている。世に出回っているものを見れば、このことがよくわかる。対する悪い哲学は、読み辛く、理解しにくいもので単に避けられるだけではなく、批判の対象にさえなる。    

バビッチさんによれば、今では大陸哲学の要素が圧縮されるような形で一つの哲学として扱われているという。アメリカの大学で大陸哲学をやることは、社会的に認知されないことをやるような雰囲気があり、大陸哲学者は賤しめられていると見ている。しかし同時に、分析哲学はその資源を使い果たしたのか、大陸哲学の魅力のためなのか、大陸哲学のテーマを取り入れる傾向も見られるという。その扱い方には不満があるようだが、、。このような傾向はフランスでも表れていると見ているが、学生の大陸哲学に対する興味は衰えていないという。
翻って自らの立場を考えると、こうなりそうだ。もともとフランスに渡ってきたのは、まさにここで言う大陸哲学の訳のわからなさに惹かれてのことであった。科学の中に長く身を置く中で、何かが欠けていると感じたもの。それこそ科学では解決できない問いを一人の人間として問うことだったような気がしている。そのため、フランスでも科学的哲学に浸食されている現状には残念な気がしている。ただ、わたしが形而上学に強く惹かれたように、これまでの哲学に飽き足らなくなり、科学にその足掛かりを求めるということも理解はできるのである。今の考えは、科学から出発して形而上学へと飛び、その上で両者の間を行き来できればよいのだが、ということになるだろうか。