アラン・バディウさん(Alain Badiou, 1937-)のお話を聴く
以下に、聴いたままのポイントを
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哲学は知識か
科学はそうだろうが、哲学はおそらく違うだろう
知識には対象があり、対象との間に距離がある
哲学は対象と知識という関係を持っていない
哲学は知識でも、対象でもない
哲学自体が疑問なのである
ソクラテスの言葉、「わたしの知っていることは、わたしが何も知らないことである」
否定から始まっている
何も存在しないことを知り得るのか
存在しないものについての知識はない
哲学が知識でない理由がここにもある
"to be" と "to exist" の間にある距離
これこそが哲学的問題である
哲学は対象と知識には還元できない
実証主義は対象、知識だけを扱う
それは分析的な視点であり、科学である
実証主義はすべてに客観的であることを求め、哲学に対しても例外ではない
すべての科学に共通する科学の本質を問うという視点は科学にはない
それは "being" の問題で、個々の科学の中の問題ではない
分析的視点に立つと、否定から始まるものには向かわない
"existing" にしか向かわない
オントロジー (存在論)とは
"to be" と "to exist" の間にある距離を問題にするもの
知識でないとすれば、継続はない
知識は現状を伝達していく
反復であり、継続であり、蓄積である
知識には対象があるからである
哲学は継続できない、常に始まるのである
すべての哲学者は始める
どのように始めるのか
過去の哲学者の蓄積を示し、そこから続けるように始めるのではない
過去の新しい解釈から始めるのである
否定から、無から始める
対象から、知識からは始められないからである
何も知らないとは、無とはどういうことか
それは全くの主観的な経験である
原始的な負の経験である
対象(客観性)のない主観性
デカルトの場合は、絶対的懐疑であった
それは主観的な世界の破壊
理性的なものではなく、実存的な経験であった
ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716)の「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」も同じ問いである
デカルトは絶対的懐疑から経験そのものに至った
対象としての主体(自己)に至った
無から存在の肯定に至ったこの過程こそ哲学の勝利であった
ここで勝利できなければ、ニヒリズムに陥る
主観的な経験から出発するものの無から抜け出すことができない
あるいは、あるがままの世界を否定して無に留まる
そして、知識には意味がないとする
ニヒリズムは哲学の敵であり、実証主義の敵でもある
もう一つの哲学の敵は実証主義である
すべての重要なものは知識であるとする
哲学をナンセンスであり、夢想であると揶揄する
哲学は実証主義でもなければニヒリズムでもない
ただ、初めはある意味ではニヒリズムである
負の経験があるから哲学は真剣なのである
問題は、最初の経験を超えられるかどうかである
そこを超えることができると、最終的には知識に還元されることになる
そこには決意が求められる
哲学は実証主義ともニヒリズムとも戦わなければならないのである
哲学は音楽の調性、音質 (tonalité) を聴くように読むこと
偉大な哲学にはニヒリズムや実証主義の要素が混じっているからである
それを聴き分けること
負の経験から出発して肯定にいたる運動
0 → 1
これがバディウさんの哲学であった
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これがバディウさんの哲学であった
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