samedi 29 mars 2008

C.S. Lewis の "Shadowlands" を観る




先日のフィリップ・キッチャー氏の話に出てきた C・S・ルイスについての映画を観る

 Clive Staples Lewis(1898-1963)



アメリカのユダヤ人詩人ジョイ・デイヴィッドマン(Joy Davidman, 1915–1960)と知り合い、1956年に結婚

4年後にはジョイは骨腫瘍のため45歳で亡くなる

ルイスは一度捨てた信仰を取り戻している

このような不条理に彼はどのように向き合ったのか

 ジョイが亡くなった僅か3年後に彼も息を引き取った

64年の人生であった


ルイスは還元主義者が使う 「それは・・・にしか過ぎない」 という表現から "nothing-buttery" という言葉を作った

例えば、「生命はDNAの化学と物理学にしか過ぎない」、「脳は機械にしか過ぎない」 というものの見方である

 そこには何かが欠けているように見える

部分がわかったとしても、その部分が作っている全体の理解には至らない

DNAの構造が明らかになっても、われわれは自身の生を理解したことになるだろうか

半世紀以上の歴史の中にその答えがある





lundi 24 mars 2008

フィリップ・キッチャー氏による科学、宗教、倫理

Prof. Philip Kitcher (1947-), Columbia Univ. 


フィリップ・キッチャー氏のお話、"Ethics after Darwin" と "Living with Darwin" を聴いた時のメモから広がるものを気の赴くままに書いてみたい。

マルクスは宗教は阿片だと言った。ウィキによれば、キリスト教約20億人(33%)、イスラム教約11億9000万人(20%)、ヒンドゥー教約8億 1000万人(13%)、仏教約3億6000万人(6%)、ユダヤ教約1400万人(0.2%)、その他の宗教約9億1000万人(15%)で、この地球 上の90%近くの人が、何らかの神を信じていることになる。宗教はなぜなくならないのか。

キッチャー氏は、アメリカのような超競争社会には宗教が必要なのではないかと考えている。このような人たちに精神的な安定を与える有効な手段が他にあればよい が、それがないとしたならば宗教の必要性が出てくる。宗教は社会的な面でもよい効果を及ぼす可能性があるとしている。この論で行けば、無神論者は社会的な 強者である可能性もある。 もちろん、無神論者はいてもよいが、ダニエル・デネットやリチャード・ドーキンスのようにセンセーショナルなやり方で宗教の否定を訴えるのには抵抗がある ようだ。

アメリカでは進化論に 対する強い反対がある。彼は進化論は科学としてではなく、歴史や比較宗教学、あるいは比較社会学の中で教えるべきだと考えている。naturalism (科学や理性)とsupernaturalism (fundamentalism) のどちらが勝つのかわからない。破壊の可能性が少なくないだろう。破壊のテクニックが高度に進化しているからだ。そこに向かわないためには、知的な議論が 可能なできるだけ開かれた環境を確保する必要がある。

神と科学は両立するのか。パスツールにおいては両立していた。現代の科学者でも、例えば The Language of God を書いたフランシス・コリンズのように両者は compatible だと主張する人がいる。科学者には無神論者が多いという話を聞いたことはあるが、優れた科学者の中にも神を信じている人は稀ではない。日本ではあまり問題 にされないが、考えてみる必要はありそうだ。つまり、これだけ広がっている信者を前にした時、彼らがどのような考えを持っているのかを知ることは、科学と の関係を考える以前に必須のことになるのではないか。

聖書、特に創世記は科学的に書かれているわけではない。詩的な要素も加わっていると思われるので、すべてが科学的真実で埋まっていると考える必要はない。イ ンテリジェント・デザイン(ID)は科学ではない。進化論を否定した科学はない。IDを全面的に受け入れる教会のやり方は信じられないし、愚かである。神 が存在するのか、しないのか。その結論はオープンでありたい。なぜなら、われわれが求めているのは真理であるからだ。そうキッチャー氏は考えている。

倫理の問題は一生考え続けなければならない問題で、終わりがないものとして捉えている。また、倫理を取り巻く哲学的問題は、歴史の光の下で理解されると考え ている。もともと倫理と隣り合わせの利他主義は、人間同士が向き合うことになった5万年前にはすでに生まれていたが、それはその社会を維持するために必要 なものだったからである。つまり、倫理は人間社会の破綻の危機に反応するために保持されてきたのではないかと考えている。

倫理に纏わる問題は、ある原理のようなものに基づいて、例えば人はこうすべきであるとか、こうあるべきだというように大上段から振りかざすものではなく、歴 史をじっくり観察しながら考えを深めていく対象ではないかという考えの持ち主と見受けた。すべてを受け入れた上で何が見えてくるのかという柔軟で、しかも それをやり続けるという執拗な姿勢をそこに見た。このような視点からなのか、遺伝子の選択により人間の行動が進化してきたとするのダーウィニズムに基づく 社会生物学 sociobiology の硬直した思想を批判的に捉えている。




vendredi 21 mars 2008

フランソワ・ダゴニェさんを聴く (6)


ダゴニェ氏は1950年頃、ディジョンで医学を勉強した。毎年、日中は病院で臨床をやっている20-25名の学生がいた。臨床と基礎科学が乖離することな く、両者を同時に学んだのである。ディジョンの学生は2-3人の患者を受け持ち、一日中患者の書記のような役目を担っていた。最初の2年を臨床から離れた 基礎科学を学ぶ現代の教育では得られない経験をしたようである。

それは、哲学から始めた彼がその立場から想像していた病気と医学からアプローチする病気との間の深淵を見たことである。病気とは痛みである。当時は抗生物質が出る前だったので、良性の病気でも治療法がなかった。

フーコーは『臨床の誕生』において、クサヴィエ・ビシャ(Xavier Bichat, 1771-1802) に重点を置き過ぎていると思う。本の執筆時に外科医だった彼の父親が亡くなったため、ビシャの中に父親を投影するということがあったのだろうか。


科学は外部化(extériorisation)を可能にしてきた。体の中の現象を、体を開けることなく外部に出して解析できるようになった。そのことが、患者の主体から離れた客観性を医学に持ち込むことになる。心臓病患者ではなく、心電図の波に変わり、肺炎患者はレントゲン写真に還元されたのである。

これに対して、カンギレムは 「病人がいて病気があるのであって、その逆ではない」 という言い方を生み出す。優れた臨床医は立派な装置を使うことなく、病気が生活態度や関連しないような兆候の中に表れていることを見つけ出す。つまり、検 査で明らかになる前に現れる兆候を掴むのが良い臨床ということになる。




jeudi 20 mars 2008

フランソワ・ダゴニェさんを聴く (5)


フランスの科学史、医学哲学の特徴

フランス医学だけではなく、ジョルジュ・カンギレム(1904-1995) に代表される医学哲学にも特徴がある。カンギレムは検査や生物学的解析が患者の体を忘れてはならないと考えていた。すべての病気は体全体の反応を生み出 し、別の規範に適応するように変化していく。一つの変化に侵されるのではなく、病気により新しい生体が生み出されるのである。

カンギレムは「客観的な病理学はない」というのが口癖だった。彼は臨床の重要性を理解していたのである。フランスの伝統である患者の経験を大事にすることとその声を聴くことを高く評価し、milieu intérieur の概念とともに生理学を打ち立てたクロード・ベルナール(Claude Bernard, 1813-1878)とその病気の概念に興味を持っていた。ベルナールにとってのオーガニズムとは、外界とその不確実性から逃れ、できるだけ変動の少ない 状態を自ら作る存在である。ベルナールが研究した糖尿病においても、単に膵臓を侵すだけではなく、循環系にも関係する。オーガニズムの全体が病気の影響を 受けるため、患者を聴かなければならないのである。病気になるとは、自由を失うこと、可能性が狭まり、依存の中に生きることである。

病理学はオーガニズムの中で想像もできなかった関係を明らかにしようとする。19世紀の著名な内科医、ジャン・バティスト・ブイヨー(Jean-Baptiste Bouillaud, 1796-1881)は、リューマチの症状(膝、関節)と心臓病との関係を指摘した。ジョゼフ・バビンスキー(Joseph Babinski, 1857-1932)は脳と足親指の間に足底反射があることを示したが、それは解剖学的ではない体を読むことである。





mercredi 19 mars 2008

フランソワ・ダゴニェさんを聴く (4)


フランス医学の伝統とは

人間中心主義の(humaniste)医学が生まれたのは、フランス革命とルネ・ラエンネック(René Laennec, 1781-1826)のあたりからになる。ラエンネックは聴診器という道具を創ったが、それによって医者が病人から完全に離れることにはならなかった。診察の過程で、病人の直接の声ではないが、肺や心臓の内なる声を聴いていたからである。

フランス革命とともに市民の健康に対する関心が生まれ、病院や施設がそれに続くことになった。1789年以前には不幸の面倒を見るのは聖職者の役割だった。フランス語で病院のことを Hôtel-Dieu というのも病院が教会の周辺に建てられたからである。ミシェル・フーコー(1926-1984) はいろいろな病人と出会う場所という意味で、植物園に準えて「病理の庭」(jardin de la pathologie)と呼ぶことになる。そこで診療の場(clinique)が生まれ、ラエンネックやナポレオンの侍医でもあったジャン・ニコラ・コル ヴィサール(Jean-Nicolas Corvisart, 1755-1821)などの臨床医が生まれたのである。つまり、症状(symptom)を記載する記号論的医学が出現したことになる。ここで注意すべきは 症状と徴候(sign)の違いで、症状が病理的な現象を掴む上で有用になる主観的なものであるのに対し、徴候は生物学的な基盤が考慮されて初めて意味を持 つ客観的なものである。

フランス学派はこの記号論的医学を20世紀に入るまで重視している。例えば、ジャン・マルタン・シャルコー(Jean-Martin Charcot, 1825-1893)、ジョゼフ・ババンスキー(Joseph Babinski, 1857-1932)に至る流れなど。この状況が変化するのは、アングロ・サクソン流の診療ではなく実験室と間接的な検査を重視する思想が圧倒的な力を以って入ってきたからである。

フ ランス学派を定義するとすれば、次のようになるだろう。それは体から発せられる如何なる徴候にも注意を払うこと。それから、臨床で明らかにしたことを死後 の解剖により確認する作業(剖検)を挙げることができる。それは臨床と解剖を結び付けた l'anatomo-clinique と言われる医学である。






mardi 18 mars 2008

フランソワ・ダゴニェさんを聴く (3)


病気と病人の乖離について

19 世紀に病人を忘れ、病気と客観性に医学の重点が置かれるようになる。病理学、解剖学、生化学、寄生虫学などの個別の学問に頼ることが先端(fer de lance)になったのである。そのため、病人がどのように生きているのか、その環境や精神状態に注意を払うことがなくなる。

そ の他の問題として、病院を訪れる人の80%とも言われる人は器質的な原因がわからないことがある。そして、病気と正常との間の境界をどう決めるのかという ことがある。そのため、深く考えることなく機械的に「こと」を処理する傾向が増すことになる。この問題は現代にも引き継がれている。主観と客観、数字と実 際の症状という対立を社会的要因をも考慮に入れて考える必要があるのではないか。

臨 床を重視する記号論の流れと技術を重視する流れの対立は現代に至るまで続いている。19世紀末のX線の発見以降の技術的発展は医学の視界を広げ続けてい る。そのため、臨床の本来の姿である病人の床とともにある時間がどんどん減少している。ただ、臨床重視の記号論の流れが消えているわけではない。例えば、 フランスでは以下のように19世紀から20世紀にかけて繋がっている。

内科医のジャン・バティスト・ブイヤール(Jean-Baptiste Bouillaud, 1796-1881)
Essai sur la philosophie médicale et sur les généralités de la clinique médicale, 1836

内科医のアルマン・トゥルソー(Armand Trousseau, 1801–1867)
Clinique médicale de l'Hôtel-Dieu de Paris, 1868

神経学者のエドゥアール・ブラウン・セカール(Charles-Édouard Brown-Séquard, 1817-1894)

外科医のルネ・ルリッシェ(René Leriche, 1879-1955)
La philosophie de la chirurgie, 1951





lundi 17 mars 2008

フランソワ・ダゴニェさんを聴く (2)


ダゴニェさんのインタビューを読みながら、この分野について学ぶと同時に、そこで触発される考えをこれから何回かに分けて綴ることにしたい。

医学の哲学は紀元前4世紀にヒポクラテス(ca. 460 BC- ca.370 BC)がその基盤を創った。そこでは医術の目的、すなわち治癒や医学の進歩の性質について初めて検討された。その伝統が19世紀に及んでオーギュスト・コント(1798-1857)などの思想家やフランソワ・ブルセ(François Broussais, 1772-1838)などの臨床家が病気を理解しようとすることになった。

20世紀に入っても病気について再考され、医術の本質や医者と病人との関係が考えらえるようになった。また、疫学が感染症などの集団における危険性を明らかにするに及び、病気と社会的要因が不可分の関係にあることを理解することが重要になってきた。

Louis Chevalier (1911-2001), Classes laborieuses et classes dangereuses (1958, 1978)

19世紀の終わりから20世紀にかけて、二つの流れが出てくる。一つはドイツ生理学の流れで、フランスではフランソワ・マジャンディー(1783-1855)やクロード・ベルナール(1813-1878)がそれに当たる。この学派は、病院に付属する基礎医学を研究する実験室や研究所の重要性を強調した。もう一つの流れはルネ・ラエンネック(1781-1826)からクサヴィエ・ビシャ(Xavier Bichat, 1771-1802)に至る臨床家によるもので、彼らは病人の体を「読む」ことの学びことを目指した。

ミシェル・フーコー (1926-1984), Naissance de la clinique (1963) (『臨床医学の誕生』 1969)

病 人の体の兆候を読む流れはフランスの記号論の流れでもある。しかし、客観的であろうとする技術的な流れが、医学的な視点である患者の声、精神状態、生の経 験を聴くというやり方を圧倒することになる。それは患者の声を超える解析装置が齎す結果に対する自信に裏打ちされたものであった。




dimanche 16 mars 2008

フランソワ・ダゴニェさんを聴く (1)


フランスの哲学者フランソワ・ダゴニェ(François Dagognet)さん。1924年、シャンパーニュ地方のラングル(Langres)生まれ。ダゴニェさんの対談本 Pour une philosophie de la maladie (Les Editions Textuel, 1996)(『病気の哲学のために』)を読む。

学校で勉強を始めたのは15歳からだが、リセにもちゃんと通っていなかったようだ。ご本人は当時のことをあまり語りたがらないという。18歳でディジョン(Dijon)に行き、6月から11月まで働き、それ以外の時間を哲学することに充てる。そしてソルボンヌへ行くが、1947年ストラスブール(Strasbourg)に行くチャンスが訪れる。そこで、『正常と病理』を書いた医学生物学の哲学者ジョルジュ・カンギレム (George Canguilhem, 1904-1995)の講義を聴いたのである。それが「生ける人間」についての知を深めるために医学を修める切っ掛けになる。

1950年代の10年は医学の中で過ごす。ディジョンで病理学を学んだのだが、周りにいたのが患者の声を聴くことを知っている医師達であった。彼らはフランス医療の伝統がそうであるように、病気、病人を取り巻く全体像を理解しようとしていたのである。ルネ・ラエンネック(René Laennec, 1781-1826)からルネ・ルリッシェ(René Leriche, 1879-1955)に至る伝統である。その本質は、ヒューマニズムに基づく個人に応じた責任ある医療であり、個人の尊厳を尊重し、治癒に至る方法に慎重である医療である。

ダゴニェは「空」の中で考える哲学者ではない。病気について考えるのではなく、病気から考えるのである。病人の経験を無視する医科学はない、という姿勢がそこにある。