lundi 24 mars 2008

フィリップ・キッチャー氏による科学、宗教、倫理

Prof. Philip Kitcher (1947-), Columbia Univ. 


フィリップ・キッチャー氏のお話、"Ethics after Darwin" と "Living with Darwin" を聴いた時のメモから広がるものを気の赴くままに書いてみたい。

マルクスは宗教は阿片だと言った。ウィキによれば、キリスト教約20億人(33%)、イスラム教約11億9000万人(20%)、ヒンドゥー教約8億 1000万人(13%)、仏教約3億6000万人(6%)、ユダヤ教約1400万人(0.2%)、その他の宗教約9億1000万人(15%)で、この地球 上の90%近くの人が、何らかの神を信じていることになる。宗教はなぜなくならないのか。

キッチャー氏は、アメリカのような超競争社会には宗教が必要なのではないかと考えている。このような人たちに精神的な安定を与える有効な手段が他にあればよい が、それがないとしたならば宗教の必要性が出てくる。宗教は社会的な面でもよい効果を及ぼす可能性があるとしている。この論で行けば、無神論者は社会的な 強者である可能性もある。 もちろん、無神論者はいてもよいが、ダニエル・デネットやリチャード・ドーキンスのようにセンセーショナルなやり方で宗教の否定を訴えるのには抵抗がある ようだ。

アメリカでは進化論に 対する強い反対がある。彼は進化論は科学としてではなく、歴史や比較宗教学、あるいは比較社会学の中で教えるべきだと考えている。naturalism (科学や理性)とsupernaturalism (fundamentalism) のどちらが勝つのかわからない。破壊の可能性が少なくないだろう。破壊のテクニックが高度に進化しているからだ。そこに向かわないためには、知的な議論が 可能なできるだけ開かれた環境を確保する必要がある。

神と科学は両立するのか。パスツールにおいては両立していた。現代の科学者でも、例えば The Language of God を書いたフランシス・コリンズのように両者は compatible だと主張する人がいる。科学者には無神論者が多いという話を聞いたことはあるが、優れた科学者の中にも神を信じている人は稀ではない。日本ではあまり問題 にされないが、考えてみる必要はありそうだ。つまり、これだけ広がっている信者を前にした時、彼らがどのような考えを持っているのかを知ることは、科学と の関係を考える以前に必須のことになるのではないか。

聖書、特に創世記は科学的に書かれているわけではない。詩的な要素も加わっていると思われるので、すべてが科学的真実で埋まっていると考える必要はない。イ ンテリジェント・デザイン(ID)は科学ではない。進化論を否定した科学はない。IDを全面的に受け入れる教会のやり方は信じられないし、愚かである。神 が存在するのか、しないのか。その結論はオープンでありたい。なぜなら、われわれが求めているのは真理であるからだ。そうキッチャー氏は考えている。

倫理の問題は一生考え続けなければならない問題で、終わりがないものとして捉えている。また、倫理を取り巻く哲学的問題は、歴史の光の下で理解されると考え ている。もともと倫理と隣り合わせの利他主義は、人間同士が向き合うことになった5万年前にはすでに生まれていたが、それはその社会を維持するために必要 なものだったからである。つまり、倫理は人間社会の破綻の危機に反応するために保持されてきたのではないかと考えている。

倫理に纏わる問題は、ある原理のようなものに基づいて、例えば人はこうすべきであるとか、こうあるべきだというように大上段から振りかざすものではなく、歴 史をじっくり観察しながら考えを深めていく対象ではないかという考えの持ち主と見受けた。すべてを受け入れた上で何が見えてくるのかという柔軟で、しかも それをやり続けるという執拗な姿勢をそこに見た。このような視点からなのか、遺伝子の選択により人間の行動が進化してきたとするのダーウィニズムに基づく 社会生物学 sociobiology の硬直した思想を批判的に捉えている。




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