vendredi 11 juillet 2008

医の言葉を考える

Prof. Denton Cooley (born August 22, 1920)


七夕の日の午前中、定期検診へ向かう。ランデブーの時間に少し遅れたが、フランスではそれほど問題にはならない。検査結果を持参して診断を聞き、その後にい つものように別室に移り視診、聴打診、体重・血圧測定、さらに今日は指先から血液を採り血糖値を計っていた。それが終った後、いつも雑談に入るのだが、今回もその時間があった。前回、私の方からフランスの哲学者について話したらしく(思い出さないのだが)、大学の話になる。そこからメモワールとして医学の歴史において病気がどのように見られてきたのか、患者と医者の関係はどのように変化してきたのか、、、などについてまとめようとしているという話をする。 それに対して、医学についてそのような側面から哲学するのは素晴らしいですね、という反応(前回は、フランスで哲学を勉強するなんて素晴らしいですね、という言葉をいただいた)。さらにフランスでもその辺はいろいろと研究されているようですが、医者と患者との関係についてはモリエールがすべてを語ってくれていますね、と付け加えていた。上から諭すような話し振りではなく、自らがそう感じ取っていることを話すというスタンスを感じ、患者と医者が同じ平面にいることを意識させられる。それだけで大きな勇気を与えられるように感じる。最後はいつもの握手と「ボン・ヴァカンス」という言葉で送り出してくれた。来る前はよもやモリエールの話が出るなどとは考えてもいなかったので、妙に嬉しくなっていた。私は特に病気ではないのだが、こういう時間こそ患者にとって癒しを与えてくれるものになるのではないだろうか。

私は医者の言葉のみならず、言葉を超えた何気ない仕草などを含めた、言ってみれば存在そのものが癒しの力を持っており、そのことが今忘れられているのではないかと思っている。これが改善されるだけで、医療に対する不満や不信のかなりの部分が解決されるような予感さえしている。そういうこともあり、こちらに来る前から病院での経験を注意深く観察するようになっている。こちらに来てからも病院だけではなく検査をするラボラトワールでの様子とそこで起こる自らの中の変化に目をやるようにしている。今回のLH医師との会話を思い出しながら、本来医学の中心の置かれなければならないこの問題について考えていた。

ドイツの哲学者ガダマーも医者の言葉が持つ癒しの重要性を考察している。患者になった方であればわかるだろうが、患者というものは医者と出会った瞬間から最後に別れる時まで全身の 神経を医者の言葉に集中している存在である。それだけの集中力で人の話を聞くことはないだろうというくらいにである。そこで吐かれる言葉の力はいくら医者の権威が地に落ちたとは言え、無視できないものが残っているだろう。医学の基本の基本にあるべきはずこのことが忘れられているのではないかと感じる場面にこれまで幾度も遭ってきた。この事実に医の側(医者を含め医療に携わるすべての人)は真剣に目を向けるべきではないだろうか。医療に身を置く人は、単に医学の科学的・技術的側面だけに身を捧げるテクニシャンを目指すのではなく、そこを超えて人間を理解したいという熱い意志(passion)を持っていなけ ればならないだろう。

アメリカの心臓外科医デントン・クーリー博士は「健康と病気の概念」という本の巻頭言で医学の現状を考察している。その文章には単に言葉として語っているのではない、これまでの経験から滲み出た深い思索の跡が見られる。

「医科学の中心をなす概念について哲学的に考え抜いて得られた知識や経験がない限り、より良い結論や政策には辿り着けないだろう」

「医 学教育に携わる者が現代社会における医師に求めるのは、純粋科学以外の領域に触れること、それはまさに哲学教育に匹敵する広い人間教育である。歴史、哲 学、倫理などに精通した医師こそ人間を取り巻く種々の問題について判断を下す資格を持つだろう。これからの医師は単なる医学や科学の徒であるだけではなく、教養と智慧を備えた学徒でなければならない」

これは1981年に出版された本での発言である。当時の状況は今と変わらないどころか、 彼の言葉が益々重みを持ってきている状況にあるというのが私の印象である。この言葉を医の側が聞き流しているうちは何も動かないだろう。しかし、これを真に受け止めることができた時、そこに関わるすべての人が新たな方向に向けて動き出さざるを得ないだろう。それくらい大きな問題である。これは余りにも大きな問題なので、今日はその存在を指摘するだけで終わりにしたい。





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