mercredi 4 novembre 2009

学会を考える: 手段が目的に



ここ数年送られてくる学会のニューズレターに会員数の減少という言葉をよく目にするようになった。現状についての情報は持ち合わせていないので、これらの発言が真であるという前提で考えてみたい。この問題の背後にあることは、一つの学会に限らずいろいろなところに隠れている可能性があり、一考の価値があると思ったからだ。

そもそも学問の目的は、と考えると、真理の追求として異論はないだろう。自然科学ではこの自然界に潜む真理や法則を見出そうとし、人文社会科学は人間や社会を根本から理解しようとする営みだと考えることができる。その営みにおける学会という視点で考えると、問題が整理される。つまり、学会はこれらの営みをするためのわずか一つの手段にしか過ぎないことが明らかになる。他のやり方があれば、それを採用してもよいわけである。学会の発足時には活気があり、盛んに討論も行われたが、時間とともに年中行事のようにつまらなくなっていくのは自然の流れかもしれない。そして、その流れはどんなに装いを新たにしても変わることはないだろう。その底にある思想や哲学が変わらない限り。

当初は意識するか否かは別にして、学会があくまでも学問するための一つの手段にしか過ぎないということを感じている。それまでその手段がなかったからだ。しかし、この原点が忘れ去られると、すべてが学会を中心に、それが絶対的な存在であるかのように、存続させなければならないものとして変化し始める。その瞬間に、手段が目的に変わるのだ。学会の institutionalization とでも言うべきことが起こってくる。そこでは形が先に来るようになり、活力が失われるのは当然のことかもしれない。

少し過激に言わせていただければ、学会を活性化するには、という問ではなく、真理を追及し学問の質を高めるためにはどのようなやり方があるのか、という根源的な問を自らに向けなければならないだろう。その過程で学会に対する認識が変わってくると、新たな視界が開ける予感がする。

科学的精神とは、本来どのような囚われからも自由であろうとする精神から生まれている。その精神が失われ、囚われの人々で溢れてくると最早科学とは言えなくなる。そういうことを感じる人が増えてくると、その輪に集う人は減ってくるのは致し方ないのかもしれない。一個人として、一科学者として、ある学問における真理を見極めたいと思わせる場所になると、そこには活力が漲り、運が良ければそこに集う人も増えてくるような気がしている。


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