先日のbnfのリブレリーでのこと。このタイトルを見て、ユニークな思考のどこが悪いのか、と反応して手に取ったクロード・アジェージュさんの本。不思議がっているうちに、unique という言葉に 「単一の」 という意味があることを思い出す。一色に染まる思考に抗する本だとわかり、手に入れる。何というお粗末さ。
クロード・アジェージュさんは初めての方になる。チュニジアのカルタゴ生れで、御歳76。カルタゴと聞いただけで、心躍るものがある。コレージュ・ド・フランスの教授を1988年から2006年まで務めていた。異なる言語が飛び交う土地で生まれ育ったためか、ウィキによると日本語も含めた50ほどの言葉を理解できるという。Dictionnaire amoureux シリーズの言語に関する辞書も書いている。
Dictionnaire amoureux des langues (Plon, 2009)
今日取り上げた本では、モンディアリザシオンが齎す問題を言語を含めた幅広い領域について分析している。因みに、英語のグローバリゼーションはフランス語では意味合いが変わっている。著者の解釈では、モンディアリザシオンとは文化の支配にまで至るもので、グローバリザシオンは商業の分野に限られ、文化的な優勢を齎すものと区別している。すでに明らかなように、現代の国際社会で意志の疎通をしようとすると、英語以外の言葉は使えない状況にある。つまり、英語が体現している世界の見方、思考様式しか通用しなくなっている。アジェージュさんはそこに多様な世界の見方、少数派の言葉、つまり考え方、文化が消失する危険性を見ている。
この本を読みながら、こちらに来る1年ほど前のことを思い出していた。ある通勤の朝、それまでの歩みを振り返り、驚くべきことに気付いたのだ。研究の上では英語は必須なので、アメリカから帰ってから頭の中を英語のままで通すように努めていた。その日、若き日の考えがさっぱり深まっていないことに愕然とし、その理由に思いを巡らせていた。そして、自分の英語の能力の範囲内でしか展開しない思索に身を委ねていたため、結局のところ考えていなかったと結論せざるを得なかったのである。
英語で考えようとして ESSAYER DE PENSER EN ANGLAIS (2006-03-13)
確かに、外国語を学ぶことは世界(の見方)を広げる上では必須である。その前に忘れてはならないことは、「もの・こと」の機微に至るまで表現できる母国語を鍛え上げておかなければならないということだろう。そこが蔑にされていると思索は深まらない。母国語の大切さに関して、フィールズ賞受賞者ローラン・ラフォルグさん(Laurent Lafforgue, 1966-)の興味深い言葉が紹介されている。
「数学のフランス学派が格別に優れているので、いまだにフランス語を使うことができるのだとよく言われますが、わたしはその逆だと考えています。フランス学派が独創性と強さを保っているのは、フランス語に執着しているからなのです」
その上で重要なことは、ギリシャ語やラテン語などの古典を学ぶことだという。これは自らの経験から言えることだが、英語以外にもう一つ理解できる言葉を持つことではないだろうか。英語の世界にいる時には、ものの見方、捉え方、表現の仕方という基本から冗談の言い方に至るまでその影響を受けていた。その結果、日本語の世界、すなわち自らの精神世界が等閑にされ、密度の薄いものになっていた。それだけではなく、英語文化の外にあるやり方を遅れたものと見るようになったことである。この危険な精神状態に気付くことができたのは、そこから出る機会があったからに過ぎない。日本を覆う閉塞感という言葉を目にする時いつも浮かんできたのは、この本が言う「パンセ・ユニーク」であった。
このような経験から、ここでは敢えて第二外国語の重要性を強調しておきたい。この世界は一つの視点からでは捉えきれない大きさと複雑さを持っている。どの言葉から観るのかで、その姿は大きく変わってくるはずである。多面的な姿を手に入れることで、より理に叶った判断が可能になるだろう。英語だけに依存していると世界の豊かさを味わえないだけではなく、道を誤る危険性も出てくる。そんなことを考えさせてくれる出遭いであった。
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