samedi 15 décembre 2012

免疫学会講演に対する感想をいただく


先日、神戸で開かれた免疫学会で 「免疫を説明する」 という演題で話をさせていただいた

 免疫学を哲学する、とでもいう内容である

 このような話をする時いつも気になるのが、現場の科学者の反応である

科学者や科学という営みに何らかの刺激を与えることができないかという願いがあるからだ

哲学という領域に閉じ籠もっていたくはないということでもある



講演の後にコメントをいただいた武田昭様にお礼のメールを差し上げたところ、以下のような文章が届いた

インターフェースから語りかけたいという考えの持ち主にとって嬉しいメールであった

これからの研究者にとっても有益なメッセージが含まれていると考えたので、以下に転載したい

転載を許可していただいた武田昭様には改めて感謝したい


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矢倉英隆 先生
メール拝受。ありがとうございます。   
神戸の免疫学会における先生の御講演、大変、感銘いたしました。
私は臨床医ではありますが、長らく、免疫学領域の研究に携わって参りましたので、免疫学の根幹が、いわば哲学的な発想に起源をもつことに、いかばかりかの理解を持つ人間ではあり、このたびの先生のお話に、とても魅了されました。

近年の、実利的・物質的な研究が隆盛を極めている日本の免疫学の現状を見ますと、ややもすれば、大局的・俯瞰的な視点が希薄になってしまっているのではないかと、危惧する者の一人です。

とくに、今の免疫学会における若い研究者の方々の発表の中には、細かい実験Dataは豊富ながら、しばしば、その研究の座標軸が判然とは見えず、したがって自分たちのおこなっている研究の位置づけに対する意識が(それゆえにパッションが)、なかなか伝わってこない場合も少なくないように感じています。
かつての日本の免疫学を推進してきた多田先生たちの世代、いわば研究者としての品格をもつカリスマ的な先達が、一線から姿を消していることも要因の一つかも知れません。

こうした変遷する時間軸の中で、今回、矢倉先生のレクチャーが、本学会で披露されたことは、大変意義深い歴史的イベントであると、実感しております。
私の浅薄な研究生活の中で、恐れながら、免疫学ならびに免疫学研究の、他の分野には見られない醍醐味は、その複雑性・多様性を包含するシステムの普遍性を求めるところにあるのではないかと、感じております。
そこに、人間的な、あるいは形而上学的な、思索というものの入り込む素地が存在するのではないかと思っております。

矢倉先生の御講演によって、日本において、さらに多くの若手研究者が、免疫学の、本来の魅力と、その広い影響力に開眼し、これからの本邦の真の免疫学の発展に参画し貢献してくれることを願っております。

先生のますますのご活躍を祈念いたします。

武田 昭 
国際医療福祉大学病院 アレルギー膠原病科
聖路加国際病院 アレルギー膠原病科*(非常勤)




jeudi 6 décembre 2012

免疫学会で変化の兆しを感じる


今朝は気持ちよく晴れ上がってくれた

空は晴れても晴れない心

そんな状態で朝を過ごす

最後は、ぶっつけ本番ということにしてホテルを出た


始まる前、座長の労を取っていただく善本知広先生(兵庫医大)と食事をしながら歓談

科学、芸術、日本などの大きな世界を考えることの魅力について話されていた

最近、大学の40周年記念に藤原正彦氏を招いての講演会があったとのこと

興味深いお話が聴けたようである


会場に入ると、多くの方が参加されていて、いつものように驚く
 
不安定な時代に何らかの指針を哲学的な話に求めるということなのか

あるいは、日々の営みから少し距離を取って考えてみたいという欲求の表れなのか

いつも責任のようなものを感じるが、あくまでも院生のレベルなのでその効果は極めて疑わしい


わたしの話の方は、やっとのことで時間内に収まった

ということで、残念ながら質疑応答の時間が取れなかった

こちらとしてはいろいろなクリティークをいただきたかったのだが、致し方ない

ただ、終了後に何人かの方から貴重なご意見をいただいた

今の科学の流れに疑問を持っておられる方が少なくない

また、東京での会SHEについても紹介したが、興味を持たれる方がおられた


会場は、これまで以上にこの領域の話を落ち着いて聞いてみようという空気で溢れていた

もの珍しい話に触れるという雰囲気が消えているのである

学会も成熟期に入り、会員の求めるところが少しずつ変容しているように感じた

「こと」 は最後には哲学や思想に行き着く

もしそうだとすれば、今進行しつつある変容は望ましいものなのかもしれない



mardi 4 décembre 2012

神戸大学での講演終わる

 寺島俊雄、的崎尚、久野高義の各氏 (いずれも神戸大学)


12月3日(月)、夕方から神戸大学医学部で大学院修士と博士を対象としたコースで講義をした

講義自体はオープンだったようで、学生以外の方の参加も見られ、わたしの想像を上回る人数であった

1時間ほど、科学に内在する哲学について概説した後、これからの知のあり方についての私見を述べた

その後、質疑応答になったが、残念ながら教員の方からの質問がほとんどであった
 
例えば、

1) 日本の哲学が用いている言葉の難解さについてどう思うか

(どうして誰でもわかる言葉を使わないのかということ)

2)  日本とフランスにおける哲学の浸透の程度に違いはあるのか

(日本は本当に哲学のない、哲学のできない国なのか)

3) 科学と哲学の関係についての分析はあったが、科学者は哲学とどう向き合えばよいのか

4) わたしはどのような方向性の哲学で科学に向かおうをしているのか



講演終了後、冒頭の写真のお三方と久しぶりの歓談となった

今回声を掛けていただいた寺島氏に昔同じ領域だった的崎、久野の両氏が加わって愉快な時間となった

ただ、お三方ともわたしを見る目に若干の濁りと歪みがあるように感じたが、錯覚だったのだろうか


歓談の場となった中華料理店 SAY YAN


久野氏からご自分のブログ 「takのアメブロ 薬理学などなど。」 に記事を掲載されたとの連絡が入った




dimanche 25 novembre 2012

神戸大学と免疫学会での講演予定


今回の日本滞在では、以下の2つの講演をすることになっている


 「哲学から見たこれからの科学」
"Science for the 21st century -- A view from philosophy"
先端医学トピックス」 シリーズ
神戸大学大学院医学研究科
(2012年12月3日 17時~)


免疫を説明する
"Explaining immunity"
第41回日本免疫学会学術集会
関連分野セミナー
神戸国際会議場
(2012年12月6日 13時~)


科学や免疫学を哲学の視点から見直した時に見えてくる景色について語る予定である

そこから広がるこれからの知のあり方についての現時点での考えにも触れてみたい

さらに考えが熟して来ることを期待しての試みになる



jeudi 8 novembre 2012

メタフィジークについての言葉


MK2のリブレリーでのこと、題名が隠れた小さな本を見つけ、取り上げる

どこかに繋がる扉がそこにあるのではないかという、いつもの期待とともに

そこにあったのは、アンドレ・コント・スポンヴィル(André Comte-Sponville, 1952-)さんの La philosophie

クセジュで『哲学』として訳されている

ざっと目を通しただけだが、哲学の捉え方がしっくりくる

 こちらに来てから気になっているメタフィジークについて、こんなことを言っている



哲学するとは、知り得ることを超えて考えること

形而上学をするとは、考え得る限り、考えなければならない限り考えること

知っている以上のことを言わないのだとしたら、哲学を諦めて科学をやるしかない

知り得ることを対象にするのが科学で、知り得ないことを対象にするのが形而上学だからだ

 哲学を止めることは、科学がわれわれに何を教え、何を知らせないのかについての自問も拒むことになる

メタフィジークの放棄は、何ものも齎さないのである




mardi 6 novembre 2012

メタフィジーク、あるいは不可能への愛


哲学が何たるかも知らずに、あるいはそれが故にこの領域に入ってきて早5年が過ぎた

科学の領域に浸りきっていた時、わたしの辞書には哲学という言葉はなかった

最後になり浮かび上がってきた「形而上学」という言葉

その時、この言葉が一体何を意味しているのかのイメージさえ湧かなかった

そもそも科学と哲学がどのような関係にあるのかも漠としていたのだ


思考だけの世界、メタフィジークの世界とはどんなものなのか

科学という具体的な世界にいたためか、それまで見たことのない世界に興味を覚えたのだろう

それまで使ったことのない頭の部分を使ってみたくなったのかもしれない

もちろん、科学においても思考に重点を置く道はあるだろう

しかし、現代ではその実践は困難を極める


5年という短い時間ではあるが、以前に比べるとイメージがはっきりしてきたように見える

これまで科学についてリフレクションする哲学をやってきた

比較的具体的な対象がそこにあるので、科学をやっていた者にとっては入りやすい

そこから先はこれからの問題になるのだろうが、、、

哲学と言えども専門化が進んでいる現在、他の領域でも状況は同じではないだろうか

そこでは哲学本来の営みであるすべての学問を包み込むことが難しくなっているように見える

それを目指すのが、おそらくメタフィジークという領域になるのだろう


先日のこと、もう4年前になるマスターの時のカイエを読み返していた

その中に、記憶には残っていないこんな言葉を発見した

「メタフィジークとは、不可能への愛である」

本質を言い得ているように見える

力を与えられるような言葉でもある


今、専門の哲学に身を置いているが、そこを超えようとする不可能への愛はまだ燃えている




lundi 5 novembre 2012

日本免疫学会ニュースレターのエッセイ

Pr. Alain Prochiantz
Collège de France)


本日、日本免疫学会から新しいニューズレターが届いた

その中に、以下の小さなエッセイを書いている


JSI Newsletter 21(1): 32, 2012

 お暇の折にでもご一読いただき、ご批判をいただければ幸いです




vendredi 19 octobre 2012

自分にとっての世界の全体をどこに見るのか


自分が投げ出されているこの世界

その全体をどこに見るのか

人それぞれだろう

家族、仕事場、仕事社会、地域社会、国、そして所謂世界

人は自ら見ている世界の中で力を尽くし、幸せを求め、認められようとする

先日のヘーゲルさんの言では、そこに真の自由はない

 しかし、この地球を超えた世界がその人の世界の全体だと仮定したら、一体どうなるだろうか

その時、自分を見ているのは自分しかいなくなる

自らの内なる基準に合わせて、もう一人の自分が自分を評価することになる

突き詰めると、その人間だけが残る

何か本質的なもの、精神、思惟に行き着く

ヘーゲルさんに肖れば、その時、精神は自らに帰還する

自分が自分を振り返ることから意識が生まれ、そこに絶対的自由が訪れる

視線はいつも遥か彼方に向かい、同時に内に向かっているのである

それは高貴な生き方かもしれない

それこそが哲学的生き方なのかもしれない

そこまで行かなければ、すべては虚しいのではないか

そんな想いとともに目覚めたパリの朝




この文章の「自分」を「あなた」に置き換えてみる

すると、全体の印象がガラリと変わり、響きがさらに広がりを見せるように感じられる




mardi 16 octobre 2012

理性的に 「こと」 を振り返る時、完全な自由が訪れる


何か「こと」があった後、カフェに落ち着く

そして、その「こと」を振り返る時、至福の時が訪れる

それはなぜなのか、不思議に思っていた

ヘーゲルさんはこんなことを言っている
「精神の自分自身への帰還が、精神の最高の、絶対的目標だ。・・・このことによってのみ精神は自分の自由を獲得する。・・・思惟のうち以外の如何なるものにおいても、精神はこの自由に達しない。例えば直観の中、感情の中では、わたしは規定された自分を見出すのみであって、私は自由ではない。私が自由であるのは、私がこのわたしの感覚に関して、やはり意識を持つ場合である。・・・ただ思惟においてのみ、あらゆる外的なものが透明となって消え失せるのである。精神は、ここで絶対的自由である。理念の関心、即ち哲学の関心は、この表現によって言いつくされている」 

わたしなりに言い換えると、こうなるだろうか

外から情報が入ってくる

それに直ちに反応するのが感情である

それに対する感覚的に生まれる考えのようなものは直観と言えるだろう

そこに留まる限り、人は自由ではありえない

それはその状況に制限されているからである

外からの刺激に対して感じたものを理性的に振り返ることにより意識が生まれる

この作業は思惟と言えるもので、この思惟がなければ意識は生まれない

生の現実から得られた情報をリフレクションすることを思惟と言っている

この過程によって初めて現実の制限から逃れることができ、自由に達することができる

それこそが哲学の本質である


 カフェでの時間は、まさにこのリフレクションの時間に当たることになる

気付いてはいなかったが、これが自由の感覚を呼び込んでいたのかもしれない

それこそが至福の感情を生んでいたのかもしれない


そんな想いが湧いてきた相変わらずの曇りが続く朝のバルコン




dimanche 14 octobre 2012

アラン・バディウさんによる哲学を聴く



アラン・バディウさん(Alain Badiou, 1937-)のお話を聴く

哲学と実証主義(positivism)とニヒリズムの関係について

以下に、聴いたままのポイントを

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哲学は知識か

科学はそうだろうが、哲学はおそらく違うだろう

知識には対象があり、対象との間に距離がある

哲学は対象と知識という関係を持っていない

哲学は知識でも、対象でもない

哲学自体が疑問なのである

ソクラテスの言葉、「わたしの知っていることは、わたしが何も知らないことである」

否定から始まっている

何も存在しないことを知り得るのか

存在しないものについての知識はない

哲学が知識でない理由がここにもある

"to be" と "to exist" の間にある距離

これこそが哲学的問題である

哲学は対象と知識には還元できない

実証主義は対象、知識だけを扱う

それは分析的な視点であり、科学である

実証主義はすべてに客観的であることを求め、哲学に対しても例外ではない

すべての科学に共通する科学の本質を問うという視点は科学にはない

それは "being" の問題で、個々の科学の中の問題ではない

分析的視点に立つと、否定から始まるものには向かわない

"existing" にしか向かわない



オントロジー (存在論)とは

"to be" と "to exist" の間にある距離を問題にするもの

知識でないとすれば、継続はない

知識は現状を伝達していく

反復であり、継続であり、蓄積である

知識には対象があるからである


哲学は継続できない、常に始まるのである

すべての哲学者は始める

どのように始めるのか

過去の哲学者の蓄積を示し、そこから続けるように始めるのではない

過去の新しい解釈から始めるのである

否定から、無から始める

対象から、知識からは始められないからである

何も知らないとは、無とはどういうことか

それは全くの主観的な経験である

原始的な負の経験である

対象(客観性)のない主観性

デカルトの場合は、絶対的懐疑であった

それは主観的な世界の破壊

理性的なものではなく、実存的な経験であった

 キェルケゴール(Søren Kierkegaard, 1813-1855)もハイデッガー((Martin Heidegger, 1889-1976)も同じ

 ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716)の「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」も同じ問いである

デカルトは絶対的懐疑から経験そのものに至った

対象としての主体(自己)に至った

無から存在の肯定に至ったこの過程こそ哲学の勝利であった


ここで勝利できなければ、ニヒリズムに陥る

主観的な経験から出発するものの無から抜け出すことができない

あるいは、あるがままの世界を否定して無に留まる

そして、知識には意味がないとする

ニヒリズムは哲学の敵であり、実証主義の敵でもある

もう一つの哲学の敵は実証主義である

すべての重要なものは知識であるとする

哲学をナンセンスであり、夢想であると揶揄する

哲学は実証主義でもなければニヒリズムでもない

ただ、初めはある意味ではニヒリズムである

負の経験があるから哲学は真剣なのである

問題は、最初の経験を超えられるかどうかである

そこを超えることができると、最終的には知識に還元されることになる

そこには決意が求められる

哲学は実証主義ともニヒリズムとも戦わなければならないのである



哲学は音楽の調性、音質 (tonalité) を聴くように読むこと

偉大な哲学にはニヒリズムや実証主義の要素が混じっているからである

それを聴き分けること


 
負の経験から出発して肯定にいたる運動

0 → 1

これがバディウさんの哲学であった