dimanche 28 avril 2013

知ることから理解することに至る道



金曜のハンナ・アーレントさんの映画、そしてインタビュー

それを見ながら、こちらに来る前の内的状態を思い出していた

 当時、これから望むことを、頭の中を整理したい、という言葉で表現していた

今回、アーレントさんの言葉の中に、理解する(verstehen; comprendre)、というのがあったが、それと重なったのである

この世界を理解したい、というのがわたしの願いだったのではないか

乱雑に事実だけが並べられている頭の中に一つの秩序を与えたいと考えていたのではないだろうか

そのためには、考える(denken; réfléchir)作業が不可欠になる

当時、このことを意識できていたわけではないが、この5年余りでそれがわかるようになっている


アーレントさんは、マールブルグでハイデッガーから考えることを学んだという

さらに、ハイデルベルグに移り、ヤスパースから出る言葉から理性の何たるかを知ることになる

言葉によって、それまで暗闇にあったものに光が当たるという感覚を経験したようだ


知ることと理解することとの間には大きな溝がある

その間に考えるという精神運動が入るからである

以前に読んだ日本学術会議による科学の定義は、知ることとなっていた

科学に留まっていたのでは、理解するところまでは至らないのである

ハイデッガーの言う考える作業が抜けているからである

如何に考えるかを教えるのが、哲学ではなかったのか

哲学の復権なくして、この世界を理解できるのだろうか


 日本の教育は知ることに重点が置かれているように見える

最近の記事でもこの問題を指摘した


確かに、知ることは重要である

ただ、そこで終わるのではなく、そこから始まるということである

その先にあるのが考えるという作業である


以前のエッセイで、教育のあるべき姿について、こんなことを書いたことがある

行動の基に哲学的思索を置き,その哲学を生きること

 そのことにより、自らだけではなく世界を変容させることができること

それを次世代に伝えること

図らずも、考えることを教えること抜きに教育はあり得ないと捉えていたことがわかる

それをどう実現するのか

その解に至るにも考える作業を欠かすことができない




jeudi 25 avril 2013

「曖昧さに耐えること」 再び、あるいはネガティブ・ケイパビリティ


昨年9月、神経心理学会で教育講演をする機会に恵まれた

このようなことが起こると、人生がどのように転ぶのか予想などできないことがわかる

学会ではいろいろなことを学ぶことができたが、その一つにネガティブ・ケイパビリティがある

イギリスの詩人ジョン・キーツJohn Keats, 1795-1821)が最初に使ったとされる negative capability である

わずか25歳でこの世を去った若者の言葉である

いろいろな解釈がありそうだが、不確実、不思議、未解決の状態を受容する能力とされているようだ

何だかわからない不安定な状態に居続ける能力である

これは科学で求められる能力とは対極にあり、哲学者に求められる能力のようにも見える

キーツはこの能力が芸術家、特に詩人に必要だと言っている

この世界の現象、人間の営みを一つの理論や概念に置き換えようとするのではなく、そのまま受け入れる柔軟性

即効性のある解を得て安心するのではなく、様子の見えない霧の中で耐える能力

この能力、以前に問題にした「先送り」とどこかで繋がっているようでもある
 「先送り」 再考 (2006-05-05)
「先送り」再々考 (2007-09-24)


キーツはシェークスピアに並外れたものを見ていたようだが、モンテーニュが持ち続けた能力とも通じる

モンテーニュ I-VIII (2007-09-15~2007-09-23)

そう言えば、エドガール・モランさんも対談『危機の時代にどう生きるか』の中でそんなことを語っていた

ウィキによれば、日本語訳として「消極的能力」、「消極的受容力」、「否定的能力」などがあるという

このいずれもが的を外しているのではないだろうか


Life mask of Keats by Benjamin Haydon, 1816



dimanche 14 avril 2013

パリから見えるこの世界: 第3回 「モンペリエの生気論者ポール・ジョゼフ・バルテ、あるいは過去が漂う世界」 


雑誌 「医学のあゆみ」 に連載中のエッセイ 「パリから見えるこの世界」 の第3回を紹介いたします。
ご一読、ご批判をいただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
医学のあゆみ (2012.4.14) 241 (2): 171-174, 2012




samedi 13 avril 2013

新しい 「知のエティック」 とサイファイ・カフェSHE


3月26日、27日、第5回サイファイ・カフェSHEを開きました。その時に話した内容には、このカフェの趣旨だけではなく、これからの知のあり方についての一つのアイディアが含まれていると思い、ここに転載することにしました。ご批判をいただければ幸いです。

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昨年、わたしの中で思考のあり方、知のあり方についての考えがぼんやりと纏まりを作ってきました。こうあるべきではないかという意味を込めて、それを新しい「知のエティック(éthique)」と呼び、大学や学会での講演で話してきました。まだ萌芽の段階ですが、その概略を特にサイファイ・カフェSHEでの営みとの関連でお話してご批判を仰ぎたいと思います。
この考えは、もともとはこれまでの試みでも触れたことのある19世紀フランスの哲学者オーギュスト・コント(Auguste Comte, 1798-1857)の人間精神発達の3段階法則を発展させたものになります。彼は社会学の創始者、あるいは最初の科学哲学者などと言われ、現代科学が採用した哲学である実証主義(positivisme)を提唱しました。また、アカデミアではなく、終生在野で活動した人物でもありました。
コントが提唱した人間精神の発展は次の3つの段階を経ることになります。第1段階は神学的(théologique)で虚構的な世界で、外界にある物体には超自然的な力、あるいは神的な性質が宿るとする呪物崇拝(fétishisme)から始まり、多神教(polythéisme)を経て一神教(monothéisme)に至る過程です。第2段階は形而上学的(métaphysique)で抽象的な世界で、次の段階に至る過渡的なものになります。そして、最後に来るのが実証的(positive)で科学的な段階で、人間の精神が辿り着く最高の状態であるとしています。最終段階のpositiveな状態に対するnegativeな段階とはその前の形而上学的段階を指しており、それを乗り越えて実証的段階に向かうとコントは考えました。それから、第一段階を幼児期、第二段階を青年期、最終段階を成熟期とも捉えており、人類の精神の発展過程が個人の精神の発達過程にも当て嵌まると考えていました。すなわち、前者を系統発生とすれば、個体発生にもこの法則が有効であると考えていたことになります。
人間精神が到達する最高の段階を体現する哲学は、実証主義(positivisme)と言われます。この実証主義は、経験から得られたものを論理的、数学的に処理したものだけがすべての有効な情報の基になり、省察や直観から得られる形而上学的な知を拒否する立場です。現代科学はこの哲学的立場を取り込むことにより発展してきました。つまり、形而上学、所謂哲学は現代科学の対極にある相容れない存在として捨て去られたのです。捨てなければ最高の状態には達しえないとコントは考えたわけですが、現代のほとんどの科学者もそう考えていると思います。わたし自身も現役の時には形而上学はおろか哲学という言葉さえ頭に上ることがありませんでした。その結果、科学が内包する価値や意味について科学は考える必要がなくなっただけではなく、それに言及することは科学的でないとされるようになりました。ハイデッガー(Martin Heidegger, 1889-1976)が看破したように、科学は考えなくなったのです。
科学の現場から距離を取り、哲学の領域から科学の状況を眺めるようになる過程で、わたしの考えが次第に変容していることに気付きました。コントの考え方の中には過去の考え方をすべて捨て去り、前に進むという進歩の思想が組み込まれているように見えます。しかし、過去にあった考えをすべて捨て去ることで多くのものを失っているのではないかと考えるようになったのです。それは、人間が本来持っている頭の使い方としては貧弱なものにしか齎さないのではないかという疑念に繋がりました。つまり、現代科学が採っているものの見方だけで人間の持つ思考の豊かさを十全に発揮できるだろうか、と自らに問い掛けることになったわけです。
それは、コントの言う第三段階の後に新たな段階を迎えなければならないという考えに結晶化しました。新しい第四段階となるその状態とは、第1段階の神学的なもの、第2段階の形而上学的なものをも科学的な第3段階の現在に引き上げ、人類の辿ってきた思考方法のすべてを取り込んで観察し考える世界をイメージしています。「科学の神学・形而上学化」とでもいうべきもので、フランス語で形容するとすれば、théologico-métaphysicalisation de la science(英語では、theologico-metaphysico-scientificな見方の動員)による新しい知の構築です。つまり、最高の知とされる科学知を事実の記載に留めるのではなく、科学知について人類が経験した思考方法のすべてを動員して考え直すという態度を導入することを意味しています。知識で終わる世界ではなく、知識から始まる世界を目指すことになります。
 「科学の形而上学化」などと言うと、そもそも対極にあるものを融合するような印象を与え、時代を逆行するのかという批判も聞こえそうですが、これは科学の現場に形而上学を持ち込むことではありません。現状では科学の営みと哲学などによる科学についての思索との関係がほぼ完全に遮断されていますが、そこに風穴を開け、両者が繋がることを当面の目標にしています。今は全くの真空状態にある科学を取り巻く環境に哲学的視点からこの世界を見ることの意義を注入することにより、科学者の意識をより重層的にこの世界を理解しようとする新しい知に開くことをその第一歩としています。
この試みでも何度か触れているデカルト(René Descartes, 1596-1650)の「哲学の樹」を基にこの問題を考えてみますと、次のようなイメージが浮かんできます。デカルトはすべての知(当時のphilosophie)の根に形而上学(現代の哲学)があり、幹が物理学で、そこから出る枝が医学や工学などの個別の科学であるとしました。しかし、個別の科学は形而上学から出た枝であるにもかかわらず、成長の過程でその根を切り離し、今ではほぼ完全に忘れ去った状態にあります。そのため、思考することのなくなった科学は自らを取り巻く問題に対応できないだけではなく、新たな社会問題をも生み出すことになりました。これからも生まれ続けると予想されるこれらの問題を解決するためには、「デカルトの樹」の逆転が必要になるのではないでしょうか。その世界では、忘れ去られた哲学がすべての学問を上から照らすものとして蘇り、科学者の意識に新たに上ることになります。つまり、個別の知識で終わる世界ではなく、集められた知識を批判的な視線の下に組み合わせ、関連付けながら統合するという精神運動による新しい知の確立を目指す世界になります。そのためには、専門に埋没する中で哲学に対して閉じている科学者や医学者の意識を哲学の側が新しい知のエティックへと開くように働きかけることが求められます。
この問題に関連させながらサイファイ・カフェSHEが目指す知について、わたし自身の経験を絡めて考えてみたいと思います。その経験とは、日本が行う仏検とフランスが行うDALFというフランス語の語学試験になります。結論から言いますと、仏検ではフランス語の知識が問われるのに対して、DALFではフランス語を使った思考が問われているように感じました。すなわち、仏検では単線的な対応(例えば、動詞の名詞化、穴埋め、書き取り=書き写しなど)が求められる答えが一つの世界で、知識を問う目的には叶っているのかもしれませんが思考の必要はなく、何處までも小手先の作業に終始します。これまでの比喩で言えば、事実で終わる世界です。
 一方のDALFでは「もの・こと」の関連付けや動的な思考が要求され、自らがその結果を紡ぎだす必要があります。答えは一つではありません。休眠中だったわたしの脳は、そこで展開される自由な精神運動に初めてのような喜びを感じていたことを鮮明に思い出すことができます。いろいろな事実が平面上に何の関連もなく並べられた世界ではなく、一つひとつの事実から始まり、それらが有機的に繋がりながら垂直方向に立ちあがっていくイメージを持つ新たな世界がそこにはありました。それほど大きな違いを体感していたことになります。仏検の世界をこれまでの知の状態だとすれば、SHEが目指すのはそこに留まるのではなく、DALF的なダイナミックな思考を動員した新たな次元の知を構築する世界とも言えるものです。少し大きく言えば、それこそが日本がこれから採るべき思考様式ではないかと考えています。
 第5回サイファイ・カフェSHEでの発表から


lundi 8 avril 2013

サイファイ・カフェSHEに想いを巡らす


2011年11月から帰国の折に、「科学から人間を考える」試みという会を開いている

科学を哲学的視点から見直そうとする試みである

先月、その5回目を東京で開いた

帰国前にこの会の性格について考えていた

その結果、科学と哲学を組み合わせた「サイファイ・カフェ」という名称を思いついた

これからは、科学から人間を考える < サイファイ・カフェ SHE > と呼ぶことにしたい

Sci-Phi Cafe "Science & Human Existence" である


イントロに使用したスライドは、初回から公開している

今回、講師の話した内容についても公開することとした

第5回のテーマは、「生気論を考え直す」であった

興味をお持ちの方はこちらをご覧いただけき、ご意見をいただければ幸いである

これから機会を見て、初回からの内容についても専用サイトに掲載する予定である


今回の原稿を準備中、無関係に見えたこれまでの会との間に繋がりを感じる瞬間があった

これからこの作業を続ける過程で、予想もしなかった新しい姿が現れるのではないか

そんな期待を抱かせる出来事であった

この試みを始めた当初には思いもよらなかった展開である




このような試みに興味をお持ちの方の参加を歓迎いたします




dimanche 24 mars 2013

カール・ヤスパースによる哲学講座に相応しい人材



「私は、大学の哲学講座はどんな事情のもとでも必要だと思っています。というのは、そうした哲学講座が設けられていて、少なくともその担任者が、将来哲学する人間がその講座を通じて再び広範な影響を及ぼすことができるように、その講座を維持しておくことが必要だからです。しかし講座担任者はどんな種類の人であるか、だれが講座担任者であるか、ということが問題です。これについて私は、今日では、哲学講座への招聘にあたっては、これまで一般的にそうだったように、つまらない経歴、つまり大学卒業試験、哲学の学位、大学教授資格の獲得、大学教授といった経歴に拘泥すべきではないと思います。そうではなくて、哲学するようになった人間が、学問の世界や実人生のどこにいるか、また、いまや偉大な哲学の伝承と結びつきながら、自分が思索したり経験したりしたことを、大学の哲学講座を通じて伝達しようという心がまえをもつようになった人間が、学問の世界や実人生のどこにいるかを探し求めるべきだと思います」  (武藤光朗訳)




dimanche 10 mars 2013

エッセイ 「パリから見えるこの世界」 第2回のご紹介


現在、総合医学誌 「医学のあゆみ」 に 「パリから見えるこの世界」 と題したエッセイを連載しております。キーワードとして、医学、科学、哲学、歴史、フランスなどを考えています。今回は第2回のエッセイを以下にご紹介いたします。ご一読いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。






samedi 9 mars 2013

サイエンス・カフェ考、あるいは Gathering から Sci-Phi Cafe へ模様替え



2011年11月から始め、今月末で5回目を迎える

毎回同じ内容で2日間やっている

平均すると、各回2日で25名の方に参加していただいている

参加された皆様には改めて感謝したい


当初、この試みの英語名として何気なく The Gathering を選び、これまで使ってきた

 昨日、この会の特徴を説明するとすればどうなるかを考えていた

この試みを始めた時から一貫した考え方がある

それは、日本の空間に欠けているのではないかと気付いた点を基調に据えようということである

単なる事実で留まるのではなく、その背後にある思想や事実から広がる世界について思いを巡らすことである

科学に当て嵌めると、成果だけではなく、むしろ成果を生み出した精神の働きや成果を取り巻く問題に重点を置くことである

 科学論文で言えば、材料・方法や結果の先にあるディスカッションを充実させることでもある

論文の世界でディスカッションを広げることを制限する傾向が増しているように、現実世界でもその傾向が強い印象がある

事実を知ることで事足れりとして、そこから想像や統合に向かう精神運動が乏しいように見えるのだ

 そこで、この試みでは科学の話題を歴史や哲学の視点から見直そうとしている

現在、国の政策もあってか、サイエンス・カフェが花盛りである

すべてを調べたわけではないが、そこでは科学の成果を紹介することが中心になっている

事実を学ぶことに重点が置かれている

科学の内容を伝えることは大切なことである

ただ、それだけでは不充分に見える

明治期、日本は科学を導入するに当たり、科学の持つ精神には目も呉れず技術だけを取り入れた

当時のお雇い外国人が、そのことに驚いている

同じような状況が今盛んになっている科学の伝達においても見えるように思えてならないのだ

 ふわふわと浮いていて、どこにでも飛んでいきそうな感じとでも言えばよいのだろうか


ところで、われわれの試みはサイエンス・ポータルのサイエンス・カフェに紹介されている

ただ、所謂サイエンス・カフェとは違うように見える

かといって、哲学カフェ / カフェ・フィロというのでもない

敢えて名付けるとすれば、サイファイ・カフェではないか

Science と Philosophy の頭を取り、繋ぎ合わせた Sci-Phi である 

ネットで検索すると、このようなものは世に出回っていないように見受けられる

ということで、今回からこの名を正式に使うことにした

その名に相応しい内容に発展するよう努めていきたい




dimanche 24 février 2013

創発に関するメモ


Emergence、創発と訳される現象がある

昨年、学会でもSHEでも触れることになった概念である

科学と哲学が交差するところにもなる

創発を議論する人は、自然界の現象には層構造があると見る

現象を理解する最も基本になるのが物理学で、次に化学、生物学、心理学、社会学というヒエラルキーがあるとも言える

創発とは、下のレベルに由来するけれどもそこからは自立した新たな現象が出現すること、とある

しかし、その定義は確実なものではなさそうだ


定義の規準として、非還元性、予測不可能性、概念的新規性、存在論的新規性などが挙げられている

創発と言われる現象は多様で、すべてに当て嵌まる定義は可能なのだろうか

そもそも創発という現象は存在論的範疇なのだろうか

 一度名指しされるとどこまでも創発であり続けることができるのか

あるいは、科学の法則では説明できないものの吹き溜まりで、説明可能になるとそこから離れて行くのか 

創発は稀な現象なのか、どこにでも見られるものなのかについても意見が分かれているようだ




vendredi 15 février 2013

第5回 「科学から人間を考える」 試み SHE のお知らせ

 by Toshi (Toshimi Ishii)


The Fifth Gathering SHE (Science & Human Existence) 

テーマ: 「生気論 vitalism を考え直す 

 2013年3月26日(火)、27日(水) 18:20-20:00
いずれも同じ内容です


SHEの趣旨と今回の内容 

この世界を理解するために、人類は古くからいろいろな説明の方法を編み出してきました。それが神話であり、宗教であり、日常の常識でしたが、それとは一線を画す方法として科学を生み出しました。この試みでは、長い歴史を持つ科学の中で人類が何を考え、何を行ってきたのかを、毎回一つのテーマに絞り、振り返ります。そこでは目に見える科学の成果だけではなく、その成果の背後にある歴史や哲学にも注目します。このような試みを積み上げることにより、最終的に人間という存在の理解に繋がることを目指すスパンの長い歩みをイメージしています。

今回は、その原型がアリストテレスの哲学にあるとも言われる生気論(vitalism)を取り上げます。生気論は生物には物理化学の原理に還元できない生命原理、生命力があるとする哲学的立場で、近代に入ってからは機械論(mechanism)に対抗する立場として新たに蘇りました。しかし、機械論、還元主義が圧倒的な力を持つ現代では非科学的であるとして退けられています。その背景には一体ど のような歴史があるのか。科学万能時代と言われる今、非科学的とされた生気論から学ぶことはないのか。もしあるとすれば、それをどのように今の時代に生かすことができるのか。これらの問題を考え始めるための枠組みについて講師が30分ほど話した後、約1時間に亘って意見交換していただき、懇親会においても継続する予定です。
 
会場: カルフール会議室
Carrefour
  
東京都渋谷区恵比寿4-6-1 恵比寿MFビルB1
電話: 03-3445-5223 

参 加 費 
一般の方: 1,500円 (コーヒー/紅茶が付きます)
大学生: 無料(飲み物代は別になります) 

終了後、参加者の更なる意見交換の場として懇親会を開く予定です。
参加をご希望の方は、希望日懇親会参加の有無を添えて
she.yakura@gmail.comまでお知らせいただければ幸いです。

よろしくお願いいたします。