dimanche 27 avril 2008

宗教は科学にとって脅威か?



先日ネットサーフの折、ガーディアン紙のサイトにあった科学と宗教との視点の違いがよく現れている対論に出くわした。科学を代表するのが一方の極にいるダニエル・デネット氏(アメリカ、タフツ大学)なので、その違いがより鮮明に出ている。その全文は以下のサイトにあるので参照願いたい。ここではその要点を掻い摘むことにする。

Is religion a threat to rationality and science?
(The Guardian; Tuesday April 22, 2008)

対論のテーマは宗教が理性や科学にとっての脅威になるのか、という問題で、科学代表デネット氏と宗教代表ウィンストン卿(インペリアル・カレッジ・ロンドン、名誉教授)が真っ向から対立している。

まず、宗教が理性や科学の脅威にならなくて一体何がなるのか、と主張するデネット氏。

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それはアルコール、テレビ、ビデオゲームだろうか、と自答している。これらはわれわれの判断力や批判的な能力を鈍らせる圧倒的な力があるが、宗教はそれらの力を無力化するだけでなく、それを歓迎するところがある。そして人は夢の世界に、知の世界から心を避け、彼らを毒する頭の中の声に耳を傾ける人生を送る。

以前は酔払い運転をする者を、アルコールの影響があるということで大目に見る傾向があったが、今や自らを無責任な立場に置くという大きな罪として捉えている。宗教についても同様のことを考えるよい時期ではないのか。社会を破壊するようなすべての宗教に基づく行為やその宗教指導者は運転する者に酒を勧める バーテンダーや取り巻きの人などと同じように罪深いという態度を取る必要があるのではないか。われわれのモットーは、友よ、友人を宗教に基づく生活に導くなかれ、である。

今現在、アフガニスタンで宗教冒涜の罪で死刑を待っている学生がいる。考えてもみてほしい。この21世紀の解放されたアフガニスタンで宗教冒涜の罪が死刑なのである。しかし、世界のほとんどの人が一言も発しない。どこかでデモがされただろうか。それともイスラム教徒を傷つけたくないのだろうか。宗教以外のことにはすぐに反応するのに、宗教に関わることになるとその判断が自らに跳ね返るためか躊躇するのだ。

この決断をどのような枠組みで捉えるのかにバランスを欠く点があるのだが、ウィンストン卿の場合は最悪である。彼は終りなき作業をしながら多くの問題を処理しなければならないが、その間にも一つの狂信的な行為によりわれわれが大切にしていたものが灰燼に帰すことも起こりうるのである。確かに、宗教を信じることと狂うこととは関係はないが、その一因にはなるだろう。最悪なのは、宗教的信仰は過大な自信を人びとに与えることだろう。それによって普段考えられないような非人間的な過ちを起こすかもしれないということを全く気に掛けなくなるのだ。

この理性への鈍感さが、宗教に対して最も恐れていることなのである。例えば、スポーツや芸術でも同様の非理性的な側面はあるが、社会的には隔絶されている。しかし、宗教だけはそれを神聖な義務として要求し、地上のすべての生活に関わってくるところが問題なのである。

よりよいものは最善の敵である。宗教は多くの人をよりよくする可能性はあるが、最高の状態であることを妨げるものである。その敬意、忠誠心、そして真剣な献身を、想像上の存在(神)からわれわれとわれわれの祖先が創った善き世界という実在するものに向かわすことができれば、素晴らしいのだが、、

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これに対して、ウィンストン卿はこのように反論する。

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デネット氏はパスカルの有名な賭けに応じることはないだろう。パルカルはこう言っている。「あなたが神を信じると言ったところで失うものは何もない。なぜなら、神が存在しないとしても失うものはないし、存在すれば死後の世界で恩恵を得ることができるのだから」。デネット氏は神なきものとして世界を理性的でよりよい場所とするように生きるのがよいと主張している。教会を建て、教会に通うのは資金と時間の無駄だと指摘している。

彼の進化論に基づくと思われる信仰についての見方には、信者の信仰や感情に真剣に向き合うところがないように見えるという問題がある。彼は異なる考えにも真摯に向かうと繰り返し主張しているが、彼の頭の中では人間を「優秀な者」と「信者」に分けている。つまり、あなたが優秀でなければあなたの考えには同意しかねる、なぜならあなたは知的に劣っていて、心が閉ざされ、過度に恐れているからだ、と考えるのである。

ある意味では、彼はリチャード・ドーキンスと同じ罠に嵌っている。彼は宗教について知っていると思っているが、真摯な研究をしたように見られない。例えば、ユダヤ人の態度やイスラム教の習慣など。

宗教は人間の意識に埋め込まれていて、その整合性については多くの証拠がある。有史前のわれわれの祖先の生存の話は置くとして、最近でも人知を超えた力が絶望的な状態に置かれた人間をいかに駆り立てるという例がある。ヴィクトール・フランクルは、アウシュビッツの極限状況の中で唯一生き残ったのは、必ずしも信仰というわけではないが、ある精神性を持った人たちであったという観察をしている。

デネット氏は科学は真理であると信じているように見える。優秀な私の科学者仲間の多くと同様に、科学こそ確実性を意味するという考えを広めている。彼の著書 "Breaking the Spell: Religion as a Natural Phenomenon" でミームに対する彼の見解を支持するとして Eva Joblonka を引用しているが、彼女がドーキンスの進化に関する見方には批判的なことを忘れている。"The Book of Job" を再読された方がよいだろう。

問題は、今や科学者がこの本で扱っているような問題、われわれがどこから来て、どこに向かっているのか、われわれの宇宙を超えたところには何があるのか、というような生命の謎に迫るような問題について答えることができると信じていることである。しかし、科学を用いて研究すればするほど理解できないことが増えている。現実には宗教、科学ともに人間の不確実性を表現しているのである。確実性はそれが科学であれ宗教であれ、危険なものであるという逆説であろう。デネット氏の主張する比較的穏やかな確実性には、われわれの社会に亀裂を生むという危険性がある。科学と宗教の両者が硬直した立場を取ると、確実性が理性と科学にとって最も大きな脅威になるであろう。



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