jeudi 15 octobre 2009

マルセル・サンドライユさんと遭遇 Marcel Sendrail



ネットサーフの途中、トゥールーズで活躍した医者にして作家のこの方と遭遇。

Marcel Sendrail (né à Toulouse le 31 août 1900 et mort à Toulouse le 4 juin 1976)

サイトの紹介によると、患者さんの全存在に対するのが医学という信念を持っていたことが伝わってくる。病気についても同じ視点を持っていたのではないだろうか。いずれのリストに入れておきたい。
Histoire culturelle de la maladie (Privat, 1980) が「病気の文化史」と題して日本語に訳されている。

mardi 13 octobre 2009

ホメオパシーを見直す




以前に「『水の記憶』の科学者たち」と題して別ブログで触れたことがある(2008-4-14)。日本ではほとんど気にかけていなかったが、こちらでは日常的に見られるので不思議に思っていた。この分野を最初から敬遠するのではなく、なぜそれほどまでにこの療法が使われているのかという視点で見直してみようという気になる。以前に触れたバンヴェニスト博士の話を詳しく扱って有名な BBC の Horizon という番組を見てみた。

彼の発見は Nature 誌に発表されたが、その後の検討から根拠のないものであることになった。しかし、ホメオパシーはいまだに使われ、効果があると言う人がいる。プラシーボ効果の可能性もあるが、子供でも動物でも効果があるとすると心理的な影響では説明ができない。アレルギーに対しても有効だという結果を出しても、それに対する科学的説明がないということで医学の中心からは受け入れられない。

そこにジェームズ・ランディという奇術師がホメオパシーを証明した人に100万ドル出すと言い出し、ロイヤル・ソサエティの同意のもとイギリスの科学者による公開実験が始まる。どのような結果になるのか。














最後に、リチャード・ドーキンス博士によるホメオパシー批判を。途中、ホメオパシー専門医(特に資格はいらないようだ)との興味深いディスカッションがある。2005年の段階で Lancet 誌に発表された論文のデータを解析したところでは、ホメオパシーに効果は見られないという。





vendredi 9 octobre 2009

エドワード・ウイルソンさんの講演を聞く


昨日の就寝前、Edward O. Wilson さんによる進化と地球の未来についての講演を聞く。

  "Evolution and the Future of the Earth"


どこにいても先端のユーモアに溢れるお話を味わうことができる。
講演は今年4月にワシントンDCで行われたもの。
ウィルソンさんは1929年のお生まれなので、御歳80。
まだまだしっかりしておられる。

jeudi 8 octobre 2009

"Open System Science" のシンポジウムへ、やはり還元主義の克服か


Institut océanographique


今日は朝から海洋学研究所へ。ソニー研究所主催の "Open System Science" に関するコロックを聞くためである。以前からこの前は通っていたが、特に注意していなかったため海洋学の研究所とは思いもしなかった。大講堂の壁には海の絵が一面に描かれていて、これまでには感じたことのないゆったりした気分になる。

コロックのテーマとなっている 「オープンシステムサイエンス」 という言葉にはあまり接したことがない。こちらにその概要がある。方法論に関する知識はないが、これからの方向性はそうなるのではないだろうか。還元主義では時を止めた、限られた範囲の問題について解析するが、「オープンシステムサイエンス」 では偶然に溢れた歴史的な(時間軸のある)現象を解析する。そのために別の解析方法が必要になる。それから、これまでの外から見る視点ではなく、内に入ってそこから見る視点が求められるとのこと。扱う問題が複雑になっているのでその解決には還元主義の克服が必須になる。これまでの原理の追求の科学の中に逃げ込むのではなく (というような表現を所真理雄さんは使っていたと思ったが)、そこから問題解決の科学へ進むことを唱えている。そのため、科学の中に新らたにマネジメントという概念を加えている。還元主義者としてやってきた目を思い出して聞いたと仮定すると抵抗があるお話だろうが、今では全く違和感を感じなくなっている。

広い範囲を対象にする場合には、科学者をより哲学的にするのかもしれない。科学的態度としてはよいが、方法論を提供しないという批判を受けることがあると所さんが話していた。しかし、アームチェア・サイエンティストとしては、このような領域の方に魅力を感じるようになっている。実験データを出すことができないし、出す必要がない場合には科学を違う視点から楽しむことができるようだ。




lundi 5 octobre 2009

ある免疫学者が見た集団的思考 "Denkkollektiv"



著者のクラウス・アイヒマンはドイツの免疫学者で、ドイツのシステムの中心を歩いてきた方になる。今回読んでみて、3年ほど前に研究生活を終え、その後科学哲学の領域を自ら読みながら来し方を振り返っていたことを知った。その歩みは私の場合と完全に重なることに驚いていた。また、本書の内容は私の同時代の記録にもなっているので興味深く読み進むことができる。

そのテーマは、彼が研究生活の大部分を捧げたニールス・イェルネの学説 「ネットワーク・セオリー」 の盛衰になる。ニールス・イェルネについては、以前に別ブログで触れたことがあるので参照願いたい (2008.6.9)。 この学説は発表された当時大きなインパクトを与えたが、その後証明が難しく、形而上学的であるなどの理由で免疫学の中心から無視されることになったもので ある。そのようなテーマをやってきたアイヒマンが研究生活の終わりを迎え、自らの研究生活の意味を問いたくなったとしても何ら不思議ではない。むしろ、自 らの経験を振り返ってみると非常によく理解できる。

この学説をもとに仕事を進めた研究者は当代一流の人が多い。彼の疑問は、なぜこのように基盤の怪しい学説に多くの優秀な研究者が惹きつけられたのか、ということになる。この疑問から、免疫学の領域で見られた大きな誤りについても検証している。大きな誤りとは、免疫学に占める位置が大きな問題に対する答えが、研究の進歩に伴って間違っていたことが明らかになるという意味である。その誤りの種類は、完全なでっち上げから実験結果の解釈の間違い、さらに実験に用いた材料の不備など様々である。事が進行している最中はある意味では熱狂の中にあるが、時が経って見ると当時感心して聞いていたような話が実は全くの想像の産物であり、実験に基づく証拠などないことがわかる。今、冷静になってその話を聞き直してみると、むしろ滑稽でさえある。その中にいると科学的な検証をすることなく、流されてしまうのだ。

アイヒマンは科学哲学を読み始めたばかりで、特にトマス・クーンがパラダイムについての着想を得たルドヴィク・フレックに影響を受けている。フレックについては別ブログで触れている(2008.5.18)。 その影響は、本書のタイトルがクーンのパラダイムに当たるフレックの "Denkstil" を共有するコミュニティとも言える "Denkkollectiv" へのトリビュートであることに現れている。この言葉をタイトルに入れたことからもわかるように、研究者が冷静な心を失い流される背景には研究の世界で主流 となっている考え方に有形無形の影響を受けているためではないか、という推測がある。ある実験結果を見た時に、今流行りの考えに合うような答えを出そうと する。他の解釈もできるのに、主潮に沿うような解釈をしてしまうことが起こっているのではないか。そこに功名心なども加わるかもしれない。実際に研究を進 めている人が眼には見えないこの束縛から自由になるのは難しいかも知れない。

もう一つ私が考えたのは、科学哲学が教える精神運動についての知識がないこともあるのではないだろうか。その精神運動とは、少し引いてものを見る、時には歴史的な事実にも目をやりながら考え直してみるという態度と言ってもよいだろうか。私自身も現役の時にこの領域について知っていれば、もう少し違った研究生活になったのではないかとその存在を知ってから思ったものである。現役の研究者も科学哲学への理解を深めるべきだと考える理由がここにある。

この本には実際にネットワーク・セオリーをもとに研究をした人たちのインタビューが載っている。その中に興味深いコメントが見つかった。それは、この説が出た当時は研究者がよくディスカッションをしていたが、今それぞれの枠の中に入ってしまい、研究者間のディスカッションがなくなってしまったというものである。小さな領域に入ってしまうと、ディスカッションがテクニカルになりがちである。ネットワーク・セオリーのように全体を説明しようとする場合には、それぞれの哲学も含めて幅広いディスカッションをせざるを得なくなる。ひょっとすると、当時の一流の研究者はこの全体を説明する説の出現に惹かれたのかも知れない。それ以来、この説に代わるようなパラダイムはまだ出ていないように見える。


dimanche 4 octobre 2009

エリー・ウォルマン記念シンポジウムより ― 「ウイルスは生きている」



昨年亡くなったエリー・ウォルマン(Elie Wollman, 1917-2008)を記念するシンポジウムに先週参加した。パトリック・フォルテールさんPatrick Forterre; パスツール研究所、パリ第11大学)がウイルスの定義、生命の起源に関係するお話をしていた。

彼の視点はいつもできるだけ広くものを見ようとするところが特徴だろう。今回の講演の前に、1961年に Scientific American (204:93-107)に発表されたフランソワ・ジャコブとエリー・ウォルマンのエッセイ "Viruses and genes" を読んでみたという。彼らの精神の中にも、自らの細菌遺伝学の成果を他の領域、特に癌の発生と結びつけるという統合的な視点が見られることを指摘している。現在の傾向はこれに逆行するもので、本来は一緒に考えなければならないウイルス、プラスミド、ファージなどの研究がそれぞれの分野に固まってしまい、ミーティングもどんどん細分化していると警告を発している。そんなこともあってか、来年6月には細菌とウイルスをまとめて考えるシンポジウムを計画しているようだ。




人の遺伝子の40%(~80%)はレトロウイルス由来であることが明らかになっている。ウイルスが人から遺伝子を盗んでいると考えられていたが、実は人の方がウイルスから遺伝子を盗んでいることになる。ウイルスやプラスミドが新しい遺伝子や機能の貯蔵庫の役割を担っており、細胞に創造性を与える元になっている。最近、真核細胞の核、細胞壁、ミトコンドリアの複製、転写などはウイルス由来で、胎盤、合胞体 (syncytium)などはレトロウイルス由来とする報告が出され、哺乳類の起源にも関与している可能性が高い。

また、人間とチンパンジーはおよそ600万年前に共通の祖先から分かれて進化したが、その遺伝子は96%~99%共有されている。両者に差があるのはレトロウイルスの組み込みの程度だという。ある意味ではウイルスが人間らしさを生み出していると言えなくもない。

フォルテールさんが強調したかったのは、ウイルスをどう捉えるかという点にある。ウイルスとは、という問になる。第一の問題(ドグマと言ってもよいだろう)は、ウイルスをウイルス粒子 (virion)と考えていることである。ウイルスをその生活環の中で見ると、細胞内にある時期は細胞をウイルス生産工場に変えることができる。しかし、これはウイルスは細胞をウイルス粒子生産工場に変えると改めなければならないだろう。

前の記事でも取り上げた巨大なミミウイルスを古細菌に感染すると、宿主の遺伝子は変性し、そこにあるのはウイルス・ゲノムだけになるという観察をしている。つまり、この古細菌はウイルスの遺伝子を持った細胞になる。彼は、ウイルスとは感染した細胞である、ウイルスは細胞生物であると提唱したいようだ。つまり、ウイルスは細胞であるので生きているとの結論になる。




さらに、生物の世界をリボソームとカプシドを持つ二つに分けるように提唱している。つまり、生命の世界は細胞とウイルスの二つに分かれるというものだ。興味深いお話である。最後にこう付け加えていた。この二つの世界(細胞とウイルス)は進化の過程で大戦争をしてきた。その戦争が進化のモーターであった。最近、この両者は相互に折り合いをつけるように進化してきたという、謂わば甘い考えも出されているが、彼は理由ははっきり語っていなかったがその立場は取らない。大部分の科学者は戦争を嫌うので、細胞とウイルスの戦争を過小評価する傾向があるのではないかと推測している。政治的には正しくないかもしれないが、戦争こそ新しいものを生み出す大きな力があると考えている。ジャコブとウォルマンのエッセイにも 「ウイルス感染の全過程は、一国が他国を占領するのに比することができる」 と書いている、と結んでいた。


vendredi 2 octobre 2009

Mimivirus


Figure 1. Mimivirus branching in the Tree of Life. None of the genes used to generate this tree exhibited evidence of recent lateral transfer.

GiantVirus.org から

jeudi 1 octobre 2009

ウイルスは生きているか? Les virus, vivants ?


Le Mimivirus, ou "virus imitant un microbe", dépasse en taille certaines bactéries.
(微生物類似のウイルス、ミミウイルス。細菌より大きいものがある)

今年の2月20日のル・モンドの記事から。

Les manuels scolaires l'assènent volontiers : les virus n'ont pas le privilège de la vie. Certes, ils disposent d'un génome. Mais, à la différence des organismes cellulaires (plantes, bactéries, animaux, etc.), ils sont incapables de le répliquer hors de la cellule qu'ils infectent. Ce "parasitisme absolu" les exclurait de la vie, les confinerait au statut d'"entités biologiques", minuscules sacs de gènes agrégés au hasard des hôtes rencontrés... Mais, depuis peu, les découvertes s'accumulent qui semblent faire aux virus - au moins à certains d'entre eux - une place à part entière sur l'arbre du vivant.

学校の教科書ははっきりとウイルスには生命としての特徴がないと言っている。もちろん、ゲノムはある。しかし、植物、細菌、動物のような細胞生物とは異なり、感染した細胞の外では複製ができない。この 「絶対的寄生性」 によってウイルスは生命から除外され、「生物学的存在」、出会った宿主でランダムに凝集する遺伝子の入った小さな袋などと矮小化される。しかし最近、生命樹において少なくともあるウイルスに特別の位置を与えるような発見が積み重なっている。

La première grande remise en question remonte à mars 2003. Des chercheurs français de l'Unité des rickettsies et pathogènes émergents (CNRS, université de la Méditerranée) décrivent alors, dans la revue Science, un virus gigantesque découvert dix ans plus tôt, infectant des amibes, dans le système de climatisation de l'hôpital de Bradford (Royaume-Uni). Entre sa découverte et sa caractérisation, son inventeur, le Britannique Tom Rowbotham, l'avait confondu avec une bactérie, eu égard à ses dimensions imposantes (de l'ordre du micron). D'où son nom de baptême : Mimivirus (Mimicking Microbe Virus, ou "virus imitant un microbe")..

最初にこの問題が問い直されたのは2003年3月に遡る。地中海大学リケッチャ・新興性病原体ユニットのフランス人研究者が10年前にイギリスのブラッドフォードの病院の空調システムで発見されたアメーバに感染する巨大なウイルスについてScience誌に発表した。その発見と解析の間、最初に見つけたイギリス人トム・ローボータンはそのサイズがミクロン単位であったことから細菌と混同していた。そこから微生物を模倣するウイルスという意味 (mimicking microbe virus) のミミウイルスという名前が付けられた。

Un an plus tard, le séquençage du génome de la bestiole jette plus encore le trouble : il se révèle long de plus d'un million de paires de bases, quand la majorité des virus n'en alignent qu'une dizaine de milliers. Non seulement Mimivirus est plus volumineux que bon nombre de bactéries, mais son génome, composé d'un millier de gènes, n'a rien à leur envier. Il possède en outre les neuf gènes communs à tous les gros virus à ADN, attestant l'existence d'un ancêtre unique, ayant sans doute existé il y a plus de trois milliards d'années, à cette famille virale. A bien des égards, la découverte de Mimivirus est si déconcertante que bon nombre de biologistes se posent la question du caractère accidentel de ce virus si inattendu...

一年後、そのゲノムのシークエンスはさらなる問題を投げかける。大部分のウイルスが数万の塩基しか持たないのに、このウイルスは100万以上の塩基対を持っていることが明らかになったからである。ミミウイルスが多数の細菌より大きいだけではなく、そのゲノムも細菌に劣らないのである。その他、ミミウイルスはすべての大型DNAウイルスに共通する9つの遺伝子を持っていることから、30億年以上前に存在していたこのウイルス属の先祖があることを示している。多くの点でミミウイルスの発見は意表を突くもので、多くの生物学者がこのウイルスの予想もしないような特徴について自問している。

La métagénomique, qui consiste à séquencer massivement tout le matériel génétique d'un milieu, leur a donné tort. "Depuis la description de Mimivirus, nous avons découvert en réanalysant les données de métagénomique, que les virus appartenant à sa famille (les mimiviridae) sont extrêmement abondants dans la nature, explique Jean-Michel Claverie, chercheur (CNRS) au laboratoire Information génomique et structurale, coauteur du séquençage de Mimivirus. Il y a environ un million de particules virales dans un millilitre (ml) d'eau de mer - jusqu'à un milliard dans les zones côtières -, dont environ un tiers est sans doute très proche de Mimivirus." C'est, en tout cas, ce que suggère l'abondance de certaines séquences génétiques, caractéristiques des mimiviridae, dans l'océan.

ある環境の中の遺伝物質すべてを大規模に解析するメタゲノミクスによっても誤りが明らかになった。「ミミウイルスが記載されて以来、われわれはメタゲノミクスのデータを解析し直し、ミミウイルス属に属するウイルスが自然には非常に多いことを発見しました。海水1 ml 中には約100万 (沿岸部では10億にまで至る) のウイルス粒子があり、その約3分の1はミミウイルスに非常に近いのです」とミミウイルスの遺伝子配列解析の共著者であるゲノム・構造情報研究室の研究者ジャン・ミシェル・クラヴリー (CNRS) は語る。いずれにせよ、これは大洋にミミウイルス属の特徴を持つ遺伝子配列が溢れていることを示している。

Les virus géants sont donc partout, ou presque. Et ce bien que leur existence même ait été ignorée jusque très récemment. La raison en est simple : "Depuis le milieu du XIXe siècle, on a toujours détecté les virus en les faisant passer par des filtres de plus en plus petits, explique M. Claverie. Les gros virus restaient donc bloqués avec les bactéries et n'étaient pas identifiés." On ne trouve jamais, dit-on, que ce que l'on cherche.

したがって、巨大ウイルスはほとんどあらゆるところに存在しているが、つい最近までその存在さえ知られていなかった。理由は簡単である。「19世紀以来、ウイルスは常にどんどん細かなフィルタを通して検出されていました。したがって、大きなウイルスは細菌とともに除外されたままで、同定には至らなかったのです」 とクラヴリー氏は説明する。この方法では求めるもの以外は決して見つからないのだ。

Tout récemment, dans le système de climatisation des Halles, à Paris, l'équipe de Didier Raoult (unité des rickettsies et pathogènes émergents), l'un des pères de Mimivirus, a trouvé un tout proche cousin du virus géant - plaisamment baptisé Mamavirus. Plus gros encore que son prédécesseur, sa séquence génétique devrait être publiée dans l'année. Mais surtout, avec lui, une découverte publiée fin 2008 dans Nature, qui sème un peu plus le doute sur le caractère présumé inerte de ces "poisons" (virus en latin). Car cette fois, avec l'énorme Mamavirus, les chercheurs identifient un petit virus-satellite, baptisé Spoutnik, qui a cette singularité d'infecter Mamavirus, lorsque celui-ci a lui-même infecté l'amibe qui lui sert d'hôte... comme un emboîtement de poupées russes.

最近、ミミウイルスの父の一人とされるディディエ・ラウール(リケッチャ・新興性病原体ユニット)のグループがパリのレ・アールの空調システムにママウイルスと名付けられるほど巨大なウイルスの仲間を発見した。以前のものよりさらに巨大で、その遺伝子配列は年内に発表されるはずである。しかし、特に2008年末に Nature に発表された発見は、これらの毒 (ウイルスの由来となったラテン語の意味)が無害であるとすることに疑いを差し挟むものである。なぜなら今回巨大なママウイルスとともにスプートニクと名付けられた小型の衛星ウイルスを発見したからである。このウイルスはママウイルスが宿主となるアメーバに感染する時にママウイルスに感染するという特徴を持っている。あたかもマトリョーシカ人形のように。

"Lorsque Mimivirus ou les membres de sa famille infectent une cellule vivante, ils y créent, en exprimant leur génome, une "usine à virus" qui ressemble beaucoup à un noyau secondaire, explique Jean-Michel Claverie. Le fait que ce "noyau secondaire" puisse être à son tour infecté par un autre virus montre à quel point il ressemble à un noyau cellulaire classique !" "Les virus ont longtemps été confondus avec leur virion", renchérit le microbiologiste Patrick Forterre (Institut Pasteur, université Paris-XI), évoquant la particule virale qui pénètre dans la cellule vivante pour y installer le virus proprement dit et lui permettre de s'y répliquer... "Un peu comme si on confondait l'homme avec son spermatozoïde !", décrypte Jean-Michel Claverie, qui va jusqu'à comparer la pénétration du virion dans une cellule pour y exprimer ses gènes, à un cycle sexuel...

「ミミウイルスやその仲間が生細胞に感染すると、自らの遺伝子を発現してそこに第二の核のように見えるウイルス工場を作ります。この第二の核が他のウイルスに感染され得るということは、それが古典的な核にそれほど似ていることを意味しています」 と語るのはジャン・ミシェル・クラヴリー。「ウイルスは長い間ウイルス粒子(ビリオン)と混同されてきたのです」と強調するのは微生物学者のパトリック・フォルテール(パスツール研究所、パリ第11大学)。「丁度人間と精子を混同するのに少し似ています」とはジャン・ミシェル・クラヴリー。彼は遺伝子を発現するためにウイルス粒子が細胞に侵入することは性周期にも喩えられるとまで言う。

Un virus infecté par un autre virus. Il est tentant de résumer cette étrangeté par une formule : "Puisqu'ils peuvent être malades, c'est donc que les virus sont vivants." La découverte de Spoutnik replace surtout les virus dans un nouveau schéma d'évolution. "Ils ont toujours été conçus comme étant seulement sélectionnés par leurs proies alors que les "organismes vivants" sont sélectionnés par leur proie et leur prédateur, dit Didier Raoult. L'existence de Spoutnik montre que les virus peuvent, eux aussi, être pris entre la proie qu'ils exploitent et le virus qui les attaque..."

他のウイルスに感染されるウイルス。この奇妙さをこうまとめたくなる。「病気になり得るのだから、ウイルスは生きている」。スプートニクの発見により、ウイルスを進化の新たなスキームに入れ直すことになる。ディディエ・ラオールは語る。「ウイルスはこれまでその獲物によってのみ淘汰され、生物はその獲物と外敵により淘汰されると看做されてきた。スプートニクの存在は、ウイルスもまた獲物とウイルスを攻撃するウイルスの間にあることを示している」

Les virus sont-ils vivants ? Pour répondre, il faut en passer par une autre question : qu'est ce que la vie ? Pour Didier Raoult, "ce n'est pas une question de biologie, mais plutôt de sémantique ou de théologie". D'autant, ajoute-t-il en substance, que les progrès de la métagénomique nous donnent la mesure de notre ignorance : la majorité des gènes identifiés dans la nature ne se rattachent à rien de décrit. "Comment définir un champ dont on ignore encore toute l'étendue ?", interroge M. Raoult. Patrick Forterre propose une définition simple : "On peut commencer à parler de vie lorsque les mécanismes de la sélection darwinienne s'appliquent." Or, rappelle-t-il, "les virus y sont soumis..."

ウイルスは生きているのか。この問に答えるためには、生命とは何か、というもう一つの疑問を通過しなければならない。ディディエ・ラオールは 「それは生物学の問ではない。むしろ、意味論や神学の問になる」 と考えている。メタゲノミクスの進歩によりわれわれの無知がどの程度のものかが明らかにされた。自然界で同定されている遺伝子の大部分は解明されていない。「その全貌を知らない領域についてどのように定義するのでしょうか」 とラオール氏は問いかける。パトリック・フォルテールは単純な定義を提唱する。「ダーウィンの選択機構が働く時に生命と言うことができるのではないか。そしてウイルスはその機構のもとにある・・・」

Stéphane Foucart

LE MONDE | 20.02.09 | 16h20 • Mis à jour le 20.02.09 | 19h51