dimanche 23 mai 2010

コンフォーミストを乗り越え、新しい言葉を携えて



一人ひとりがその存在の内にあるモーターに従って生きる。
この世に唯一の存在として生きる。
それはよいことではないか、そうあるべきはないか。
しかし、価値判断の前に、それ以外には生きられないだろう。
生を十全に生かそうとするならば。

われわれは、自らを周りに合わせながら歩み始める。
そうして言葉や日常生活のやり方をを覚える。
自らの文化を学び、社会での振舞いを習得する。
この危うい生命はコンフォーミストとして出発せざるを得ない宿命を負っている。
そうして社会の中に入ると、今まで従っていたものが圧力に変わってくる。

しかし、問題はまさにそこにある。
その圧力を客観視できるかどうか。
そこから抜け出ることができるのか、そこから自由な視点が得られるかどうか。
ここで重要になるのは、専門の知識ではなく、それを超えたところからものを見る智。
それが哲学であり、歴史だ。
人間に対する眼差しであり、思索になる。
少し離れた空間に身を置き、新たな知に触れながら世界を眺めることだろう。

そうしてもう一度、この世界に戻ってくる。
その時にはコンフォーミストとしてではなく、哲学者として。
自らが唯一つの存在であることを意識し、新しい言葉を携えて。
その言葉とは、それまでの専門の言葉を超えたもの。
その時初めてこの世界の中にある自らを感じ、その中で対話できるようになっているだろう。
人を結ぶ言葉は専門の語彙からは成っていない。
対話が成り立たない空間にいて、個が本当に生きているだろうか。

コンフォーミストを一度乗り越えた個が集まっている世界。
皆がするから私も、ではない空間。
その空間は、やはり望ましいものに見える。
そこからしか、生き生きとしたものは生まれてこないだろう。


jeudi 20 mai 2010

フィリップ・クリルスキー著 「利他主義のとき」 " Le Temps de l'altruisme " de Philippe Kourilsky



昨年末に仕入れ、序を読んだままになっていた本がある。免疫学者でパスツール研究所の所長もしていた現コレージュ・ド・フランス教授のフィリップ・クリルスキーさんが書いた 「利他主義のとき」。 

    " Le Temps de l'altruisme " de Philippe Kourilsky

その序文は日本でも有名なノーベル賞学者のアマルティア・センさんが書いている。その概略をしばらくご無沙汰していたブログ 「パスツールからのメッセージ」 に改めてまとめてみた。以下にその記事を転載したい。


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センさんの主張の底を流れているのは、エピステモロジーとエティックの対比だろうか。認識論、あるいは知識論と訳されるものと倫理との対比になるが、科学と哲学との対比と置換できるだろう。この点は私も考えていることなので、興味深く読んだ。彼は次のようなことを言っている。

この本は、世界の対象を理解する時に見られる限界が方法、省察の不足、注意の欠落に由来することを示している。この障害を乗り越えるためには専心と決意が求められる。科学知は解析の厳密さとコンセンサスの追求に依るところが大であるが、われわれを取り巻く社会や世界の理解には双方向のアンガジュマンが求められる。この態度が世界を悲惨から救うために必要になる。

クリルスキー氏は、科学知と日常の事物の理解の関係を日常の事物として科学の対象を捉えるように主張し、社会的、政治的、経済的コンテクストに入れて考えることの重要性を説いている。そのためには科学者が自らの守られた場所から出なければならない。これを読みながら、マンハッタン計画の主導者であったロバート・オッペンハイマーの次の言葉を思い出していた。

    「技術的に魅力的なことに出会った時、前に進み、それを実現する。
     それで何ができるのかは技術が達成された時に議論するのだ」

後に彼はこの態度を悔いることになる。事後 (ex post) の論理は科学の特徴である予測や全的な評価には劣るのである。

クリルスキー氏は、責任という考えが世界を正確でより広い視点から理解することと如何に深く結び付いているのかを示す。しかし、この考え方はエピステモロジーとエティックを厳密に分けることを主張する人には受け入れられない。クリルスキー氏の言う 「エティックの動員」 は、単なる知の探求とは一線を画するもので、世界のより良い理解には倫理の視点に必然的に依存することを明確に示している。その上で、現実の理解から責任の認識、そして利他主義の必要性へと進んでいく。

ほとんどの人は世界の悲惨な状況を示す統計に触れても何もなかったように平穏な生活を続けている。世界が改善されないことを無知には押しつけられない。知りながら立ち上がろうとしないわれわれの状況をクリルスキー氏は分析している。ここで重要になるのが、上に述べたエピステモロロジーとエティックの関係になる。世界を観察することと現実を理解することは別物である。これはT・S・エリオットが "Burnt Norton" と題した詩の中で次のように指摘した古い問題になる。

    「人間というものは、過剰な現実には耐えられないものだ」

クリルスキー氏はこの運命論的視点から距離を取る。現実の理解、われわれの行動と生活の倫理を推し進める道を示している。そこでは科学が貢献できることがあると同時に、分断された今の科学が得るものも大きいだろう。この本は、エピステモロジーという広大な領域とエティックの底辺を流れる規範を理解し、評価するための格好の材料を提供している。

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この本の構成は以下のようになっている。

緒言

第一部 現実の性質について
 第1章 科学の対象
 第2章 一般的な対象
 第3章 一般的対象の知
 第4章 まとめ

第二部 人間の責任について
 第5章 倫理の動員
 第6章 自らを探求すること、他者を探求すること
 第7章 個人責任の理論
 第8章 集団責任の理論

第三部 理論から実践へ
 第9章 理性の限界
 第10章 経済と利他主義
 第11章 地球規模の問題の解決
 第12章 利他主義と政治:利他主義的自由主義へ?

結論

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この本の出版に合わせた彼のインタビューが Canal Académie (7 mars 2010) のサイトにあるのを見つける。興味ある方は、こちらから。

その中で、危機や人間の不幸・悲惨に対処する安定したシステム構築について質問され、親切心と利他主義の違いについて論じている。

難しい問題だがと断った上で、彼はアマルティア・センさんの概念としての(絶対的な)自由 La liberté と個々の自由 Les libertés の違いと同様に考えたいとしている。親切心とは、個人の自由の範囲の中での態度になり、親切な行いが成されることもあるし、そうでないこともある。個人の自由に任されている。善意という言葉で表わされるものと重なりそうだ。それに対して利他主義は義務の色彩が強くなる。人間に課せられた考え方として捉えなければならないとしている。

したがって、システムを人の親切心に委ねた場合には不安定なものにしかならず、時として背後にある悲惨を覆い隠す役割 (cache-misère) さえ果たすことになる。安定したシステムを維持しようとした場合には、利他主義が必要になると彼は考えている。それはわれわれに考え方の大きな変更を迫るものになるだろう。

dimanche 16 mai 2010

専門と責任の関連を考える


" Paysage " (2009)
de Alexandre Popov (1967-)


その時、強烈なイメージが浮かんでいた。仕事を辞めるに当たり、これからを模索していた時のことである。自分の頭の中が天空のように広がり、それまでに生きてきた領域がそこにはっきりと示されていたのだ。そして、そのイメージの中での割合がほんの数パーセントにしか過ぎないことに驚いていた。仕事を続けるということは、その数パーセントの中をさらに深く掘り進まなければならないことを意味している。残りの部分に目もくれずに進んで、最後に満たされるのだろうかという疑念が生まれていた。それに代わる道が学生になることだとは夢にも想像していなかったが、後にその疑念を晴らす一つの可能性として浮かび上がることになった。

先日、仕事をしながら自らの疑問をもとに研究を進めている方から問い合わせがあった。その疑問とは、言語の起源について。実は昨年もお便りをいただいている。どうして私のような素人のところに、という思いは消えない。同時に、市井には優れた方がたくさん活動されていることを思い知らされる。職業研究者の時にはこのような問い合わせに対してどう対応していただろうか。おそらく専門外としてお断りしていたのではないかと想像される。しかし、今はすべてが研究対象とでも思っているのか、関連する資料に当たることに抵抗がなくなっている。

そしてこの連休、フィリップ・クリルスキーさんの "Le Temps de l'altruisme"(「利他主義のとき」)に目を通していた。その中でクリルスキーさんは、危機や人間の不幸・悲惨に対処する安定したシステム構築について、親切心と利他主義の違いをもとに論じている。そこでは、アマルティア・センさんの概念としての(絶対的な)自由 La liberté と個々の自由 Les libertés の違いと同様に考えている。親切心とは、個人の自由の範囲の中での態度になり、親切な行いが成されることもあるし、そうでないこともある。個人の自由に任されている。善意という言葉で表わされるものと重なりそうだ。それに対して利他主義は義務の色彩が強くなる。人間に課せられた考え方として捉えなければならないとしている。

したがって、システムを人の親切心に委ねた場合には不安定なものにしかならず、時として背後にある悲惨を覆い隠す役割 (cache-misère) さえ果たすことになる。安定したシステムを維持しようとした場合には、利他主義が必要になると彼は考えている。それはわれわれに考え方の大きな変更を迫るものになるだろう。

今朝、この二つのことが結びついたところで目が覚めた。それは、責任を果たす、あるいは自由意志に依るのではなく他者に思いを致す利他主義を実践するためには、専門性の中から飛び出さなければならないのではないか、というものである。現代人はスペシャリストとして生きざるを得なくなっている。スペシャリストを礼賛するような番組もあったように記憶している。果たしてそれでよいのだろうか、という疑念とも繋がる考えになる。

以下は、飽くまでも自らの経験をもとにした反省と想像に基づくものである。

専門に生きるということは、頭の中が「これ」と「それ以外」に仕切られた状態になる。稀な例を除いて、「それ以外」に注意を払っている余裕などなくなる。そして、それが常態になるとそのことさえ意識しなくなる。それこそが自分の姿だと思い込むことになる。そこでは何が起こるだろうか。自らに関係のないところへの視線が消え失せ、人間として考えなければならないことを蔑にしがちになる。

責任とか利他主義が満たされるためには、まず一人になり自らの中をじっくり覗くこと。その上で「それ以外」への視線を取り戻すことが必要条件になるのではないだろうか。そのためには、自らの中にある専門の枠を取り払うという作業が必須になるだろう。そんな思いが巡っていた。これはまさに「一つのすべてではなく(tout d'une chose)、すべてをすこしづつ (peu de tout)」というパスカルの考えとも一致する。それから、ディドロの人生を特徴づける「すべてに触れる (touche-à-tout)」という姿勢にも繋がる。

これは百科全書派のような態度を取り戻す、と換言できるかもしれない。しかし、それはすべてを知りましょうという姿勢ではなく(それは望んでも無理だろう)、何かが目の前に現れ、そこに向かう時に障害になる自らの周りに張り巡らされている枠を取り払うことではないだろうか。クリルスキーさんは、科学で扱う対象を日常に出会う普通の対象として見るように主張していた。ここで言われている科学は仕事と置き換えることができる。そして、日常に出会うものとして見るということは、まさに専門の枠から出て頭全体を使うということを意味しているように感じる。

その視点を取り戻すと周りの景色は随分と変わってきそうである。それこそが本来あった姿になるだろう。自らの領域に閉じ籠り、その中でしかお話をしない状態では、考えるという運動が行われていない可能性がある。世界の中に在る、という意識が生まれ難い状態にあるだろう。その中から責任や利他主義に結びつく営みは生まれてくるだろうか。すべてが自らに関係していると気付くことがその第一歩になりそうである。


dimanche 9 mai 2010

まず科学を語り始めること、そしてどのように語るのかを考えること


Guéorgui Chichkine (1997) :
Hommage aux Ballets Russes de Diaghilev (1909-1929)
(partie)


科学の普及活動が職業研究者にも謂わば義務付けられるようになってから久しい。そこでの合言葉は、科学の成果を一般の方に理解してもらうためにできるだけわかりやすく語りかけること、だったように記憶している。おそらく、そういう方向性は必要なのかもしれない。ただ、最近ある違和感を覚えるようになっている。それが今日、ある形になって現れたのでここに記しておきたい。ここで言う科学は、生命科学の領域での個人的経験に大きな影響を受けていることを最初にお断りしたい。

パリ生活もすでに3年目が終わろうとしている。それはそのまま、科学を離れて遠くからその営みを見るようになった期間とも一致している。この間どのような変化が自らの中で起こっていたのか、今はなかなか掴み難い。しかし、確実に何かが変容しているはずである。例えば、科学をわかりやすく伝えるということに対する反応が、日本にいる時と違ってきているように感じている。それはこちらで科学の公開講座に参加しているうちに生まれた変化かもしれない。その内容が私のような専門家が聞いて丁度よいレベルのものが多く、分野が違うとほとんどわからないからである。ただ、わからないからと言ってそのお話に不満を覚えるということにはならない。そこで浮かび上がる、わかりやすく伝えようというよりは科学とはこういうものであることを坦々と伝える科学者の姿を味わうことに満足するからだろうか。参加者がどのような思いで聞いているのかはわからない。大半が科学者か元科学者なのかもしれない。いずれにしてもこのようなやり方でよいと考えているのだろう。日本で難しそうなことを説明する時に、過度なわかりやすさや面白さを求めるようになったのはいつ頃からなのだろうか。もちろん、専門的な言葉を噛み砕いて説明することは必要だろう。しかし、そのこととレベルを落とすことを混同すると科学本来の姿は伝わらないのではないだろうか。

それからもう一つ、こちらに来てから考えていることがある。それは科学の普及とも繋がりを持ってくる問題で、文理の統合という考え方である。「理」 の世界に身を置いていた自らの軌跡を振り返る時、最後にある種の不全感のようなものが襲っていた。それは一つの存在として自らの全体を見渡した時に生まれたものであった。「理」 だけでは人間全体を使い切っていないという思い、とでも言えばよいのだろうか。職業人としてある前に人間として存在していることを考えれば、文理が本来分離しているものではないはずである。このことを初めて直感したのである。

元々一緒にあったものが職業人として社会に組み込まれる過程でその一方が抑圧されてしまう。そして、そのことに気付かない内に終わりを迎えることさえあり得るだろう。文理の統合と敢えて言われる問題では、その抑圧されていた部分をどのように回復するのかが問われている。それは理系の人間が芸術作品を仕上げたり、芸術を論じたりすることでも、文系の人間が科学に関連した小説を書くことでもない。もちろん、才能ある人がそれをやるのは問題はないが、文理の統合をそのレベルで考えるのは非現実的であり、それ故にその実現の妨げにさえなるだろう。

それではこの問題をどのように考えればよいだろうか。科学者ができることは研究成果を出し、発表することである。ここでの発表はこれまでは専門家の中だけでよかったが、今では専門外にも発信しなければならなくなっている。それはむしろ科学にとって望ましいことだろう。それは以下のような繋がりからになる。

科学者は、まず科学を語るという営みを始めること。外から言われたからではなく、科学者の活動として語ること。実は、これは科学の中においてさえ充分に行われていないように見える。自らの成果を発表して事足れりとし、各自の成果も含めたその領域を見渡すような語りが行われているとは到底思えない。次に考えなければならないのが、どのように語るかということ。専門家はしばしば自らの領域に埋没し、周囲との関係が掴めないことが多い。そのため科学者のお話は、ある研究がどのように役に立つのかというところで終わることがしばしばである。それは逆に自らが自らの営みを狭い範囲に閉じ込める結果に導いていることに気付くべきだろう。

唐突に聞こえるかもしれないが、そこから抜け出す視点を提供するのが哲学である。それは哲学研究などではなく、アリストテレスが語っている全体への視点という意味での哲学である。科学の研究成果を取り出し、その意味するところを歴史・哲学・文学・音楽などの多様な視点から考え、それを表現すること。この過程をどのようなものにするのかに思いを致すこと。ここに文系の素養が求められるだろう。この過程がなければ、科学がわれわれの知の中に組み込まれることはなく、不完全なままの状態に置かれる。科学者がやらなければならない、しかも実現可能な文理の統合の一つの道がここにあり、科学をより完全な姿にする重要な営みになると感じている。

多くの科学者が科学の言葉を離れた語りをするようになる時、「文」の方もその場に加わることができるようになるだろう。その意味では、「文」の側からの文理の統合に大きく寄与することになる。このような視点から科学を語るという営みを見直すこと、それこそが科学の普及を実りあるものにし、科学の未来を開くことに繋がるのではないだろうか。


mardi 4 mai 2010

Is it possible to define normality in the immune system?



In “Immunology uncaged” (News Focus, 26 March 2010, p. 1573), Mitch Leslie covered very interesting developments in immunology. One of the trends is the call for a change in research priority from mouse to human, and the second is the Human Immunology Project (HIP), which is depicted as the immunology version of the Human Genome Project (HGP). As indicated in the article, the first point is not new, and the problems in using mouse as a model of human immunological diseases are discussed in (1, 2), for example. The HIP concerns a concerted effort to establish what is “normal” for the immune system by examining a wide variety of immunological parameters.

The parallelism of the HIP with the HGP shows some optimism on the part of this reporter. However, in the HGP, because of the stability of genome, it is theoretically possible to establish the genotype by one determination of samples collected under any conditions. In the HIP, on the other hand, the measurement of the samples and the interpretation of the data may not be so straightforward. Given that the functioning of the system is affected by interactions with other factors within the system or even with other systems, there will be variations in the output numbers depending on the timing of sampling, the measurement and the condition of individuals, not only physical and but also psychological, and one determination is hardly enough. It is this wholeness of the system that causes great difficulties to treat systemic diseases like autoimmune diseases and cancers. It is certainly important to directly study the human system, but this is not logically linked to the definition of “normal” in the human population and it may be difficult to find parameters to define the general status of the immune system in each individual. Even if the “normal” value in the population is not determined, the successful treatment of human diseases could be attained. The temporal monitoring of immunological parameters in each individual may be more informative.

From the philosophical point of view, however, the proposal of Dr. Davis should be highly evaluated because it concerns the framework of scientific direction, namely how to proceed a research and on what aspects. This type of synthetic proposals will be encouraged and it should indeed galvanize the field and, if lucky, there will be fruitful spin-offs in the future.

References
1. M. M. Davis, Immunity 29, 835 (2008).
2. A. C. Hayday, M. Peakman, Nature Immunology 9, 575 (2008).


lundi 3 mai 2010

Reflecting on "the future of philosophy of science"


A couple days ago, I happened to reach the Philosophy & Theory in Biology blog. In it, Dr. Massimo Pigliucci put an article from the Tilburg meeting on the future of philosophy of science. Most of the presentations (more than two thirds) were not strictly related to this topic, but some philosophers talked about it. I don't know whether this is an indication that most of the philosophers of sciences are not concerned with this theme and "enfermé" in his or her specialized domain.

As far as I am concerned, this is the most important topic at the present time, probably because I have been involved in the field of biology/immunology for such a long time. When I started to learn what philosophy of sciences is about, I immediately realized that the benefit of communication between science and philosophy is enormous for scientists and probably for philosophers as well. Dr. Pigliucci stressed the importance of this communication throughout the article, and I totally agree with his point and in fact felt encouraged. From a scientist point of view, this is the direction to be taken by philosophers in the future.

According to his view, the future of philosophy of science concerns three major lines of inquiry. The first is a traditional approach that studies scientific reasoning and practice, which may or may not attract scientists' interest. The second is a discipline contiguous to theoretical science, and this is what Dr. Hasok Chang discussed as "history and philosophy of science as a continuation of science by other means". In fact, when I encountered this phrase a few years ago, I was struck because it described precisely what I felt at the time. The third point is a crucial simultaneous watchdog and defender of science in the public arena. The latter two seem be more recent and still evolving.

Although the first direction continues to be important, I, as a former scientist, think the second most attractive for a purely scientific reason and the third interesting from the perspective of ethics. I'll have to see where my research will take me to.


The future of philosophy of science (P&TB blog, April 15, 2010)
More on the future of philosophy of science (P&TB blog, April 22, 2010)