jeudi 28 octobre 2010

エピジェネティクスとは? 最新の Science 誌から


今日届いたサイエンス誌(10月29日号)にエピジェネティクスの特集があった。
イントロにはビデオがあり、研究者の現状認識を見ることができる。
 What is epigenetics? (Science Vol. 330. no. 6004, p. 611, 2010) video

  Epigenetics
  エピジェネティクス

  Body memory 
  細胞記憶
 
  Baldwin effect
  ボールドウィン効果

mercredi 27 octobre 2010

日本における近代科学受容の問題点 ― 渡辺正雄さんの見方


Walasse Ting (1929–May 17, 2010) ―
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日曜の夜、昨年の日本で仕入れたままになっていたこの本に手が伸びた。日本における科学、特に日頃から問題にしている科学精神を考える上で何か参考になることでもないかという期待を抱きながら読み進んだ。

 渡辺正雄著 『日本人と近代科学』(岩波新書、1976年、定価230円、古本屋で400円)

副題が「西洋への対応と課題」となっている。古本を読むときにいつも感じることだが、その内容がよく入ってくることに驚く。なぜかわからないが、今のところこんなふうに考えている。対象との距離が近過ぎると焦点がぼけてよく見えないが、少し離すと見えるようになるというあの感覚、本の中で語られる動きを止めたものを上の方から眺めているという感覚が対象を捉えやすくし、読む方に落ち着きを与えているのではないか。まさにわれわれの年代がしばしば経験する紙を離すとよく見えるというやつである。

17世紀に生を受け、次々と成果を上げてきた近代科学だが、近年科学・技術の問題点も指摘されるようになってきた。このような背景の下、日本における近代科学の受容と現状について顧みることは意義があるのではないかという問題意識で書かれている。本書では具体的な例として、明治初期に会津藩士で白虎隊員でもあった山川健次郎(1854-1931; 後に東京大学で日本初の物理学教授となり、総長も務めた)、お雇い教師として大森貝塚の発見、進化論の紹介をした東京大学最初の動物学教師エドワード・S・モース(1838-1925)、日本の無常思想の枠の中で進化論を咀嚼したとされる丘浅次郎(1868-1944)らを取り上げケース・スタディをやった後、著者の考えを表明している。

日本の近代科学の受容に関する著者の分析を最初にまとめると、次のようになるだろう。
(1)西洋の学術を摂取する時に、それを生み出した思想的・文化的基盤に思いを致すことなく、技術的な導入・模倣に終始したこと
(2)西洋の学術の諸分野の相互の関連を考慮することなく、細分化された専門分野を個別に学び取ってきたこと
(3)導入した西洋の学術と日本古来のものとの関連性を無視したままにしたこと
これらを是正することを今後の課題として捉え、それは教育に委ねられるところ大であるという結論になっている。

本書では西洋の学術、特に近代科学を見る場合の軸として忘れてならないのはキリスト教であることが強調されている。西洋の伝統的な世界観は神を基本とし、神が創造したがための自然であった。その中で人間は神の像に似せて作られた特別な位置を占めていた。人間はその神の創造した自然には神の考え、すなわち規則正しい法則のようなものが反映されているはずだと考え、古代からその謎を解こうとしてきた。その末裔が専門の科学者になる。しかし、近代科学の導入を図った頃の日本人にはキリスト教に対するアレルギーがあり、科学立国を急がなければならなかったためか、西洋文明の持つ精神的な側面に目を背けることになった。当時の状況を考えると、この点の批判は難しいだろうが、このことが科学に対する理解を一面的なものにしたことは否定できないとしている。

このような背景は進化論の受容にも影響を与えた。西欧においては神の創造した特別な位置にある人間が"下等"な生物に由来することなど想像できないことであり、神の作ったものが変わり得ることも信じ難いことであったので、進化論に対する著しい拒絶反応があった。しかし、そのことは理解不能であった。しかも進化論を理解するために必要になる諸科学(形態学、分類学、生態学、実験生物学、比較解剖学、古生物学など)の基礎が未だ築かれておらず、学問的な評価もできる状態にはなかった。自然科学の面での議論が不毛であったかわりに、ハーバート・スペンサー(1820-1903)に代表される社会進化論からの「生存競争と自然淘汰」あるいは「適者生存、優勝劣敗」などの言葉が踊り、様々な主義・主張を裏付けるのに安易に用いられたようである。

それからこれはよく言われることだが、日本人の自然観が自然の中に共にあるというもので、特別な立場にある人間が自然を客体として見み、それを変えようとする西洋の自然観とは相容れないものがある。一つの逸話として、これだけ地震の多い日本で人の世の栄枯盛衰を儚む文学は生まれたが、地震学はそこで実際に地震を体験した西洋人によってしか生れなかったことをあげている。

上の分析からも明らかなように、著者は科学を人間の知的・精神的な営みの一つとして捉えており、先人の研究成果を学ぶだけでは不十分で、それを生みだした文化や社会との関連をも理解しなければ真に理解したことにはならず、不健全な専門家にしかならないと考えている。その上で、科学の知識を習得するだけではなく、科学的思考や科学を全体的な枠組みの中で捉えようとするアプローチを取り入れる必要性を説いている。

また、ガリレオの『天文対話』を例に取り、中世のスコラ哲学を代表する人物、近代科学(ガリレオ自身か)の立場を代表する人物、知的な市民の三人の対話の中に科学の本質があるのではないかと指摘している。すなわち、真理とは公共的なものであり、それ故お互いの対話や討論を通してより高い真理を求めることができるというギリシャ以来の確信がそこに見られる。それはそのまま民主制という政治形態をも生み出す精神に繋がっていたはずである。翻って日本の学界や政界を見た時に真理は公共のものであるという前提の下での対話・討論が充分に行われているだろうか、と問い掛けている。そして、その問に否定的な考えを示した後、その原因となっているのは精神的独立の欠如、人間尊重の欠如、さらには世界観を確立させるような価値体系の欠如などをあげている。

この本の底流に流れていることは、この場でも触れてきたことと繋がるところが多い。35年ほど前の状況を改めて振り返り、表面上隆盛を極めているかに見える今日の科学の営みにおいて、当時から忘れられているとされたことがどれだけわれわれの意識に上っているだろうか。離れて見る科学の現状は、未だ片肺飛行を続けているかのようである。


dimanche 24 octobre 2010

望月京の世界 Le monde de Misato Michizuki



今年の9月は中旬だっただろうか。仕事をするつもりで午前中からパスツール研究所に出掛け、お昼の散策をして戻った時のことだった。何げなく手に取ったル・モンドの日本人作曲家の写真とインタビュー記事が目に入った。パリの秋祭り(Festival d'automne)で彼女の作品が発表されるのを機に紹介されたようである。

望月京Misato Michizuki, born 1969)

若い時からこちらに来られていて、お話にどこか日本人離れした哲学的雰囲気が漂っているのを感じ、印象に残っていた。そして先週月曜、Théâtre des Bouffes du Nord でコンサートがあったので、自らの中にどのような反応が起こるのかを見ることにした。その時の印象を綴ってみたい。





ホールはそれほど大きくはなく、演奏者と同じ平面で聞くことができ、距離感がよい。cozy な感じとでも言えばよいのだろうか。プログラムはいただいたが、席が暗いので目を通す気にならず、出てくる音に身を任せた。

冒頭、の独奏が始まる。ステージをゆっくり移動しながらの演奏。これほどじっくり笙の音色を聞くのは初めてではないだろうか。どこかバンドネオンを思わせるところもあり、現代的であると同時に日本を超えるものを持っているようにも感じていた。この楽器はフランス語で " orgue à bouche " (口で演奏するオルガン)。言い得て妙である。リードを一杯に震わせるのではなく、絶妙な息遣いで演奏されていたので楽器の特徴がよく引き出され、多様な音を楽しむことができた。演奏はMayumi Miyataさん。出しものは "Banshikicho no Choshi" と "Sojo no Choshi" であった。

そして望月さんの曲が始まった。西洋の楽器(バイオリン、チェロ、フルート、オーボエ、クラリネット、トロンボーン、ティンパニーなど)が使われているが、その他にワインボトルを叩いたり、その口に息を吹きかけたり、ホースに息を吹き込んだり、ワイングラスの縁を指で擦ったり、アクリル板を持って前後に曲げてみたりと、謂わば日常に近い音も取り入れている。これまで現代曲を聴いてきたとはとても言えないが、絵画の抽象画を観るような感覚で聴いていた。それは大きなキャンバスにいろいろな音が点として、線として、あるいは叫びのような乱れた塊として投げつけられているというイメージに近い。目を閉じて聴いていると、この世界を説明する最近のM理論ではないが、何次元の世界にいるのかわからなくなる。それから音の出る場も大切にしていることが照明を入れていることからもわかる。例えば写真で横に伸びる白いチューブのようなものは蛍光灯で、何種類かの色を出していた。これらの音楽を聴きながら、実はわれわれの日常に溢れる音こそ音楽であることを教えられたように感じていた。窓を開ける音、鳥の鳴き声、木々のざわめき、人の行き交う音、漏れる会話、子供の泣き声や話し声、車の音、飛行機の音などなど、われわれの廻りに耳を澄ますとそれらすべてが音楽を奏でていたのである。

曲目は "Etheric Blueprint Trilogy" となっており、"4D"、"Wise Water"、"Etheric Blueprint" から構成されていた。演奏はアムステルダムをベースに活躍中のNieuw Ensemble。コンサートは1時間ちょっとで終わった。




帰りのメトロでプログラムに目を通してみた。望月さんを紹介する文章によると、3年前から大学で教えるようになったが、そこでは自身が学生として習った音楽の技法を教えるのではなく、もっと広く、領域を跨ぐような豊かな視点を文化や芸術の歴史について得ることができるようにしたいとの希望を持っている。それから作品には写真や生物学、宇宙論などの科学も取り入れている。生物や意識の進化、DNA、遺伝子とその変異から霊感を得た作品として、Chimera(2000)、Homeobox(2001)、Meteorite(2003)がある。また環境との適応という観点から、人間と地球の歴史との統合という視点も生まれている。例えば、テイヤール・ド・シャルダン(1881-1955)による人間の知性の世界ノウアスフィア(La noosphère)や人間の進化の頂点と考えられるオメガ点をもとに、Noos(2001)やOmega Project(2002)を作っている。彼女の中には、科学や哲学、あるいは宗教的なものをもとに、芸術を通してこの世界と繋がりたいという意思があるように感じていた。今回発表された "4D" はデヴィッド・ボーム(1917-1992)の哲学に、また "Wise Water" は江本勝(1943-)という方の『水は答えを知っている』に出てくる、水がこれまでに旅した場所の振動を記憶として持っているというお話に触発されたもので、最後の "Etheric Blueprint" はアリストテレスの時代から空中を満たす神の声とも言えるエーテルを題材にしたとのこと。これらのお話を読みながら、壮大な世界が彼女の中に広がっているのが見えるようであった。





samedi 23 octobre 2010

生物多様性と生命倫理の交わるところ、ジャン・クロード・アメイセンさんの視点



10月21日午後からフランスの科学祭(La Fête de la Science)と言われているものの様子を見るため、4世紀の歴史を誇るサン・ルイ病院に講演会を聴きに行く。この病院にはドクターに入ってから科学史のクール(マスター向け)を聞くために何度か訪れている。歴史が残る建物を中心に据え、上の写真のような新しい建物が加わっていて、不思議な落ち着きを持つ空間である。

3人の演者がいたが、ここでは最後に演壇に立ったパリ大学の免疫学教授で INSERM(国立健康・医学研究機構)の倫理委員会の代表も務めるジャン・クロード・アメイセン(Jean-Claude Ameisen)さんの「生物多様性と生命倫理」について紹介したい。現在名古屋で生物多様性についての会議(COP10)が開催中なので時宜を得た今後に繋がるテーマである。彼はスライドなしで1時間語り続けた。以下、印象に残ったところから。

生物多様性がなぜ重要なのか。そもそも生物多様性とは新しいものを生み出し続ける能力を意味し、進化する能力に繋がる。したがって、われわれ自身の生存にも重要な意味を持ってくる。この多様性を維持することはわれわれの責任であるだけではなく、膨大な研究の必要性を意味している。一方、まだ40年ほどの歴史しかない生命倫理という概念には、生命科学・医学における倫理という意味と生物をその環境の中で捉える倫理の二つの要素がある。生物多様性と生命倫理がお互いに絡み合っていることがわかる。ここで環境と言う場合、動物や植物を含む目に見えるものだけではなく、この世界の大部分を占める目には見えない微生物の存在にも目を向ける必要がある。われわれ自身もその微生物からできていることは言うまでもない。

残念ながらここ数十年、新しい生物を作り出す能力が落ち、生物多様性を傷つけている。ダーウィンはもう130年も前に多様性を破壊する懸念を書き遺している。一般的には深い考えもなく何かをやった(ここでは破壊した)後にその対策を考えるのだが、ダーウィンは先を見て考えていたことがわかる。この世界は多くの生物が共存して均衡状態を保っているので、ある特定の状況に不都合が出たからと言って、単純にそれを排除すればよいという訳にはいかないし、そうすると多くの問題が出る可能性がある。これは外の世界の出来事だけではなく、われわれの体の中の細菌についても当て嵌まることが最近の研究で明らかになりつつある。

ここで注意しなければならないのは、生物多様性が単に種の多様性を意味しているだけではなく、種の中の個体の多様性をも含んでいる点である。そして個体の多様性の中には、ある年齢層の中での多様性だけではなく、時間軸に沿った多様性も入る。優生学的な考え方には常に警戒の目を向けなければならない理由がここにある。また最近の研究によると生物の運命は生まれつきの遺伝子だけではなく、環境が遺伝子の働きに重要な影響を及ぼしていることが明らかになってきている。環境というコンテクストの中で生物を考えることの大切さが益々増している所以でもある。

世界的にみると、科学的な原因よりは社会・経済的な原因が人間の運命を決めている場合が多い。つまり、経済的な要請を無条件に受け入れてよいのか、環境や生物多様性を破壊するような営みにどのように対していくのかがこれからの大きな問題となる。レッセフェールでやりたいようにやらせるのか、厳格な計画を立てるのかという問題でもある。しかし、アメイセンさんはこの両者とも幻想であると考えている。自由放任は論外であるし、自然の未来を予測して計画を立てることなど不可能だということなのだろうか。いずれにしてもこれから経済活動を見て行く場合、それが健康、平和、正義、生物多様性にどのような影響を与えるのかを考えることが不可欠になる。その時、自らと異なるものに対する敬意、共に分かち合うという感覚が求められるだろう。われわれの生き方、考え方を変えることなく、この問題の解決はないという結論に落ち着いていた。


samedi 16 octobre 2010

「水の記憶」その後、モンタニエさんの試み



以前に別ブログで「『水の記憶』の科学者たち」と題した記事を書いた。その後、経過を追うでもなく放置していたが、先日ある方からリュック・モンタニエさんがこの問題を新たに解析されていることを紹介されたのでざっと目を通してみることにした。

Electromagnetic signals are produced by aqueous nanostructures derived from bacterial DNA sequences. Interdiscip Sci Comput Life Sci 1: 81–90, 2009

この研究を始める前に以下のことがわかっていたようだ。

1)マイコプラズマ(Mycoplasma pirum)に感染したヒトのリンパ球培養上清を100nMのフィルターと20nMのフィルターで濾過し、無菌状態にしたものをそれぞれマイコプラズマに感染していないリンパ球と培養すると後者で再び感染が見られる。

2)これらの濾過した培養上清を水で希釈していくと、電磁波の発生を観察できる。これは感染していない細胞の培養上清の濾過液では見られない。

この論文では電磁波シグナル(electromagnetic signals: EMSと略す)の発生する条件やEMSの性状を明らかにしようとしている。材料として、マイコプラズマと大腸菌(E. coli)、ヒトTリンパ球とTリンパ球の腫瘍細胞を用い、電磁波測定装置で培養上清のEMSを測定している。この装置についてはよくわからないので、報告されている観察結果に基づいて紹介したい。

1)マイコプラズマの場合、濾過液の希釈が少ない場合にはEMSは発生しないが、1/10*5から1/10*8、あるいは1/10*12希釈で発生し、それ以上薄めるとEMSは見られなくなる。100nMの濾過液より、20nMの濾過液の方がEMSが強い。

2)大腸菌の場合、100nMの濾過液(無菌であることを確認)では1/10*8から1/10*12の希釈でEMSが観察された。フィルターを通さない液ではEMSが見られなかったので、濾過の過程がEMS発生に重要な意味を持っていると考えられる。マイコプラズマと違い、20nMの濾過液ではEMSが見られない。

3)なぜ低濃度に希釈した方がEMSが発生するのかについて、希釈の少ないものと多いものを混合して調べたところ、EMSを出していた低濃度のサンプルからEMSが見られなくなったので、高濃度の状態にはEMS発生を抑制する効果がある可能性がある。

4)興味深いことに、高濃度のものと低濃度のものを別の試験管に入れて1日室温で隣り合わせに置いただけで、低濃度の試験管からEMS発生が抑制される。二つの試験管の間にシールドを入れるとこの現象が見られなくなる。

5)この現象は大腸菌と同じ濃度で他の細菌でも見られた(Streptococcus BStaphylococcus aureusPseudomonas aeroginosaProteus mirabilisBacillus subtilisClostridium perfringensなど)。ただし、これは100nMの濾過液に限り、しかも二つの試験管に同じ細菌が入っている時だけになる。

6)驚くべきことに、最初の細菌数に関係なく(10個であろうが10*9個であろうが)、それを希釈した時に同じようにEMSが見られる。

7)EMSの発生にはDNAが必要であるが、DNAそのものからというよりは、DNAによって誘導される微小構造(nanostructureと言っている)による可能性がある。

8)DNAを幅広い間隔で切断する酵素処理ではEMSの抑制は起こらないので、短いDNA配列か稀な配列が関与しているのではないか。

9)EMSを発生する細菌は病原性を持つものが多く、生体によい効果を及ぼすとされるラクトバシラスなどはEMSを発生しない。

病原性のある細菌のDNA配列による電磁波は、例えば細菌と宿主細胞との間の接着を強め、病原性の発現に関与している可能性も考えられる。生物学だけの素養では俄かに信じられない現象が観察されているが、現段階では現象論に留まっているように見える。これから物理学の視点などを加え、EMSに関わる分子レベルでの実態が明らかにされればこの現象の見方も変わってくるかもしれない。新しい領域になるので、今後の研究の進展を見守りたい。


dimanche 10 octobre 2010

ピエール・テイヤール・ド・シャルダンとノウアスフィア Pierre Teilhard de Chardin et noosphère



Pierre Teilhard de Chardin (1er mai 1881, Orcines - 10 avril 1955, New York)
Scientifique de renommée internationale, il fut à la fois un géologue spécialiste du Pléistocène et un paléontologiste spécialiste des vertébrés du Cénozoïque. Il est considéré comme l'un des paléoanthropologistes les plus remarquables de son époque.

1. Le Phénomène humain (1955)
2. L'Apparition de l'homme (1956)
3. La Vision du passé (1957)
4. Le Milieu divin (1957)
5. L'Avenir de l'homme (1959)
6. L'Énergie humaine (1962)
7. L'Activation de l'énergie (1963)
8. La Place de l'homme dans la nature (1965)
9. Science et Christ (1965)
10. Comment je crois (1969)
11. Les Directions de l'avenir (1973)
12. Écrits du temps de la guerre (1975)
13. Le Cœur de la matière (1976)

Pierre Teilhard de Chardin
French philosopher and Jesuit priest who trained as a paleontologist and geologist and took part in the discovery of Peking Man. Teilhard conceived the idea of the Omega Point and developed Vladimir Vernadsky's concept of Noosphere. He came into conflict with the Catholic Church and several of his books were censured.

ピエール・テイヤール・ド・シャルダン


Noosphère
Le concept forgé par Vladimir Vernadski, et repris par Pierre Teilhard de Chardin, serait le lieu de l'agrégation de l'ensemble des pensées, des consciences et des idées produites par l'humanité à chaque instant. Cette notion, qui repose généralement sur des considérations plus philosophiques que scientifiques, fut l'objet de débats assez vifs et reste associée à une forme de spiritualisme aujourd'hui assez marginal. On peut la rapprocher des notions de géosphère, de biosphère ou encore d'infosphère.

Noosphere
According to the thought of Vladimir Vernadsky and Teilhard de Chardin, it denotes the "sphere of human thought". The word is derived from the Greek νοῦς (nous "mind") + σφαῖρα (sphaira "sphere"), in lexical analogy to "atmosphere" and "biosphere".

ノウアスフィア
人類は生物進化のステージであるバイオスフィア(生物圏)を超えてさらにノウアスフィア(叡智圏)というステージへ進化するという、キリスト教と科学的進化論を折衷した理論。ウラジミール・ベルナドスキーとテイヤール・ド・シャルダンが広めた「人間の思考の圏域」を示す言葉であり、近年に及んでインターネットにおける「知識集積」の比喩として用いられることが多い。


Vladimir Vernadsky (1863 – 1945)
Russian mineralogist and geochemist who is considered one of the founders of geochemistry, biogeochemistry and of radiogeology. His ideas of noosphere were an important contribution to Russian cosmism. He also worked in Ukraine where he founded the National Academy of Science of Ukraine. He is most noted for his 1926 book The Biosphere in which he inadvertently worked to popularize Eduard Suess’1885 term biosphere, by hypothesizing that life is the geological force that shapes the earth.

ウラジミール・ベルナドスキー



Cosmos - a process of convergence and divergence



mardi 5 octobre 2010

ゲシュタルト心理学


ゲシュタルト心理学
人間の精神は部分や要素の集合ではなく、全体性や構造こそ重要視されるべきとした。この全体性を持ったまとまりのある構造をドイツ語でゲシュタルト(Gestalt:形態)と呼ぶ。ゲシュタルト心理学は、ヴィルヘルム・ヴントを中心とした要素主義・構成主義の心理学に対する反論として、20世紀初頭にドイツにて提起された。
Gestalt psychology
Psychologie de la forme (gestalt)


ヴィルヘルム・ヴント(1832年8月16日 - 1920年8月31日)
ドイツの生理学者、哲学者、心理学者。 実験心理学の父と称される。彼は心理学を経験科学と看做し、形而上学を攻撃した。彼の立場は精神と肉体を別物とする二元論(精神物理的並行)。心理学の研究法として自己観察(内観)を用い、意識を観察・分析し、意識の要素と構成法則を明らかにしようとする要素主義を主張した。
Wilhelm Wundt
Wilhelm Wundt

ヴォルフガング・ケーラー(1887年1月21日 - 1967年6月11日)
ドイツの心理学者。ゲシュタルト心理学の創始者の一人。エストニア出身のバルト・ドイツ人
Wolfgang Köhler
Wolfgang Köhler

マックス・ヴェルトハイマー(1880年4月15日 - 1943年10月12日)
ゲシュタルト心理学の創始者の一人。チェコ、プラハ生まれのユダヤ人。
Max Wertheimer
Max Wertheimer

クルト・コフカ(1886年3月18日 - 1941年11月18日)
ゲシュタルト心理学の創始者の一人。ドイツ生まれのユダヤ人。
Kurt Koffka
Kurt Koffka


佐久間鼎(1888年9月7日 - 1970年1月9日)


samedi 2 octobre 2010

Stephen Hawking さんの "The Grand Design"、あるいは量子論的存在論

by Stephen Hawking & Leonard Mlodinow


先日、ル・モンドで紹介されているのを読み興味を持ったスティーヴン・ホーキングさんの新刊が予想通り面白い。これまでこの領域にそれほど興味を持っていたとも思えないのだが、こちらで学ぶ中でその受容体が活動してきたのだろうか。小さな穴から垂直に進んでいたエネルギーが水平方向に拡散しているということかもしれない。特に印象に残ったところを振り返ってみたい。

本のサブタイトルは "New Answers to the Ultimate Questions of Life"(生命の究極の問への新しい解答)となっている。彼は究極の問として以下のものをあげている。これらの問は彼自身の発明ではなく、長い人類の歩みの中で発せられてきたもので、すべての人が知りたいと思うものでもあるだろう。興味深いのは、それらすべてに科学が答えることのできないはずの「なぜ」が入っていることである。

  「なぜ何もないのではなく何かがあるのか?」
  「なぜわれわれは存在しているのか?」
  「なぜこのような法則であって他のものではないのか?」

宇宙を深く理解するためには、その「なぜ」に入っていかなければならないと考えているようだ。そして、これらの問の答えがいつ現れるのか、そんなワクワク感を持って読み始めた。

まず感じたのは言葉が厳選されていること。できるだけ正確に、しかも短い文章で説明しようとしているので、読んでいてその集中力が乗り移ってくる。前半では哲学と科学の歴史が紹介されている。人類の精神活動の歩みを大きく眺めるのは、やはり壮観である。これらの章を初めてとして、至るところに哲学との絡みが見られる。この領域が初めての方には参考になることが多いのではないだろうか。

それから現実(実存感)とは何か、目の前に見えていると思っているものは何なのか、という問題が扱われる。その導入部が面白い。数年前のこと、イタリアのモンツァ市(Monza)が金魚を丸い金魚鉢に入れて飼うことを禁止したというのだ。その理由は金魚鉢に入った金魚が歪んだ世界を見ることになるので残酷であるというもの。しかし、人間がまともな現実を見ていると誰が言えるのかという問い掛けがなされ、我に返る。ここでの結論は理論に基づかない現実はないというもの。すなわち、われわれはいつもある枠組みの中でものを見ており、意識するかしないかには別にして、理論がないところではものを見ることができないと言っている。

われわれの見ている現実は本当のところどうなっているのだろうか。ニュートン力学に代表される古典的な物理学では目の前にあるものは確固たる存在だとする立場がある。それを見ている人がいようがいまいがそこにある。あるものの初期条件が決まると、その後の動きは予測できる。これに対して、観察者がそれを見ている間だけそのものは存在するという考え方もある。部屋の中にある机はその部屋を出た途端に消え、戻ると再び現れるというものだが、日常の感覚ではなかなか信じられない。しかし、20世紀に現れた目には見えない世界を扱う量子論はそれを後押しする科学的な理論になるのだろう。量子論の世界では粒子の位置と速度の両方を決めることができないという。

光の本態についてニュートンは粒子であると答えたが、波動として捉えないと説明できない干渉と呼ばれる現象(例えばニュートン自身が見つけたニュートン・リングなど)が現れる。しかし20世紀に入り、アインシュタインは光が粒子と波動の両方の性質を持っていないと理解できないことを明らかにした。このことは、ある現象にはいろいろな面があり、一つの理論だけでは説明できない可能性を示唆している。




ここで原子や素粒子の世界で起こっている現象を、われわれの日常感覚で理解するためにサッカーボールを例に説明している。二つの隙間を作った壁を前にしてボールを蹴ると、左のようにキッカーと隙間の延長線上にボールが集まるのがわれわれの世界、ニュートン物理学の世界である。ところが、ミクロの世界では右のようにいくつかの塊を作るようにボールが集まるというのだ。光の干渉と同じように。これがリチャード・ファインマンさんが「おそらく誰も理解できないだろう」と言った量子論の世界になる。この場合、ボールは特定のコースを通らずにゴールに向かうという説明がされるが、ファインマンさんはそうではなく、ボールはあらゆる可能な経路を同時に取ると考えたのである。ゴールを現在とすれば、ボールの過去は一つではなく、しかもそれを確率の上でしか知ることができないことを意味している。量子論の世界から宇宙を見ると、その過去は一つではなく、そこにはいろいろな可能性が埋め込まれており、その歴史は何を観察するかに依存することになる。これは、歴史がわれわれを作っているのではなく、われわれが観察によって歴史を作り出していることを意味している。マクロの世界に生きている者には到底理解できない説明になる。

量子論の世界の大きな特徴として、1926年にヴェルナー・ハイゼンベルクが唱えた不確定性原理がある。上でも触れたように、どれほど測定能力を向上させても物理現象の結果を確実に予測できない。それだけではなく、複数の異なる結果がある確率のもとに起こることを許容する。つまり、古典的な世界のように法則によって自然現象が決定されるのではなく、法則はあくまでも過去に起こったこと、未来に起こることの確率を決定していることになる。「神はダイスを振らない」と言ったアインシュタインが量子論を嫌う理由がここにある。

この本では、自然界を動かすものとしてアリストテレスが信じたデザインと言えるような宇宙の存在についての統一的な理論の可能性を探っている。その中で、いくつかの理論をまとめたM理論がすべての現象をよく説明するというところに行きつく(この名前の由来は誰も知らないらしいが、master、miracle、mystery のMではないか、とはホーキングさん)。この世界は空間が10次元、時間が1次元からなり、空間の7次元は折りたたまれているため、われわれには3次元としか捉えられない。われわれの感覚で捉えられない世界が確かに存在しているのではないかと思わせてくれる語り口であった。この統一理論がどのようにして生まれたのかについて興味を持って読み進んだが、残念ながら私の求めていたヒントは得られなかった。




この本に紹介されている、古典的な物理学やわれわれの日常では観察者が測定しようがしまいがそこにものがあるのに対し、量子論では観察することがその存在を決めることになるというお話。これを改めて読みながら、量子論による視点の大転換をわれわれ自身の存在に当てはめてみるとどうなるだろうか。量子論的に考えると、われわれの存在が客観的にそこにあるのではなく、観察することによって初めて存在となり、観察がその存在を変えることになる。ある対象を日々観察することにより、その歴史が作られ、その対象が存在に変わる。「観察なくして存在なし」、これが量子論的存在論とでも言うべきものの本質になるのだろうか。そう考えると、ブログでの観察は存在を生み出すための一つの歩みなのかもしれない。日本にいる時にやっていたブログ「フランスに揺られながら」の銘が ”J’observe donc je suis” 「我観察す、故に我あり」だったことが蘇ってくる。