mercredi 27 octobre 2010

日本における近代科学受容の問題点 ― 渡辺正雄さんの見方


Walasse Ting (1929–May 17, 2010) ―
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日曜の夜、昨年の日本で仕入れたままになっていたこの本に手が伸びた。日本における科学、特に日頃から問題にしている科学精神を考える上で何か参考になることでもないかという期待を抱きながら読み進んだ。

 渡辺正雄著 『日本人と近代科学』(岩波新書、1976年、定価230円、古本屋で400円)

副題が「西洋への対応と課題」となっている。古本を読むときにいつも感じることだが、その内容がよく入ってくることに驚く。なぜかわからないが、今のところこんなふうに考えている。対象との距離が近過ぎると焦点がぼけてよく見えないが、少し離すと見えるようになるというあの感覚、本の中で語られる動きを止めたものを上の方から眺めているという感覚が対象を捉えやすくし、読む方に落ち着きを与えているのではないか。まさにわれわれの年代がしばしば経験する紙を離すとよく見えるというやつである。

17世紀に生を受け、次々と成果を上げてきた近代科学だが、近年科学・技術の問題点も指摘されるようになってきた。このような背景の下、日本における近代科学の受容と現状について顧みることは意義があるのではないかという問題意識で書かれている。本書では具体的な例として、明治初期に会津藩士で白虎隊員でもあった山川健次郎(1854-1931; 後に東京大学で日本初の物理学教授となり、総長も務めた)、お雇い教師として大森貝塚の発見、進化論の紹介をした東京大学最初の動物学教師エドワード・S・モース(1838-1925)、日本の無常思想の枠の中で進化論を咀嚼したとされる丘浅次郎(1868-1944)らを取り上げケース・スタディをやった後、著者の考えを表明している。

日本の近代科学の受容に関する著者の分析を最初にまとめると、次のようになるだろう。
(1)西洋の学術を摂取する時に、それを生み出した思想的・文化的基盤に思いを致すことなく、技術的な導入・模倣に終始したこと
(2)西洋の学術の諸分野の相互の関連を考慮することなく、細分化された専門分野を個別に学び取ってきたこと
(3)導入した西洋の学術と日本古来のものとの関連性を無視したままにしたこと
これらを是正することを今後の課題として捉え、それは教育に委ねられるところ大であるという結論になっている。

本書では西洋の学術、特に近代科学を見る場合の軸として忘れてならないのはキリスト教であることが強調されている。西洋の伝統的な世界観は神を基本とし、神が創造したがための自然であった。その中で人間は神の像に似せて作られた特別な位置を占めていた。人間はその神の創造した自然には神の考え、すなわち規則正しい法則のようなものが反映されているはずだと考え、古代からその謎を解こうとしてきた。その末裔が専門の科学者になる。しかし、近代科学の導入を図った頃の日本人にはキリスト教に対するアレルギーがあり、科学立国を急がなければならなかったためか、西洋文明の持つ精神的な側面に目を背けることになった。当時の状況を考えると、この点の批判は難しいだろうが、このことが科学に対する理解を一面的なものにしたことは否定できないとしている。

このような背景は進化論の受容にも影響を与えた。西欧においては神の創造した特別な位置にある人間が"下等"な生物に由来することなど想像できないことであり、神の作ったものが変わり得ることも信じ難いことであったので、進化論に対する著しい拒絶反応があった。しかし、そのことは理解不能であった。しかも進化論を理解するために必要になる諸科学(形態学、分類学、生態学、実験生物学、比較解剖学、古生物学など)の基礎が未だ築かれておらず、学問的な評価もできる状態にはなかった。自然科学の面での議論が不毛であったかわりに、ハーバート・スペンサー(1820-1903)に代表される社会進化論からの「生存競争と自然淘汰」あるいは「適者生存、優勝劣敗」などの言葉が踊り、様々な主義・主張を裏付けるのに安易に用いられたようである。

それからこれはよく言われることだが、日本人の自然観が自然の中に共にあるというもので、特別な立場にある人間が自然を客体として見み、それを変えようとする西洋の自然観とは相容れないものがある。一つの逸話として、これだけ地震の多い日本で人の世の栄枯盛衰を儚む文学は生まれたが、地震学はそこで実際に地震を体験した西洋人によってしか生れなかったことをあげている。

上の分析からも明らかなように、著者は科学を人間の知的・精神的な営みの一つとして捉えており、先人の研究成果を学ぶだけでは不十分で、それを生みだした文化や社会との関連をも理解しなければ真に理解したことにはならず、不健全な専門家にしかならないと考えている。その上で、科学の知識を習得するだけではなく、科学的思考や科学を全体的な枠組みの中で捉えようとするアプローチを取り入れる必要性を説いている。

また、ガリレオの『天文対話』を例に取り、中世のスコラ哲学を代表する人物、近代科学(ガリレオ自身か)の立場を代表する人物、知的な市民の三人の対話の中に科学の本質があるのではないかと指摘している。すなわち、真理とは公共的なものであり、それ故お互いの対話や討論を通してより高い真理を求めることができるというギリシャ以来の確信がそこに見られる。それはそのまま民主制という政治形態をも生み出す精神に繋がっていたはずである。翻って日本の学界や政界を見た時に真理は公共のものであるという前提の下での対話・討論が充分に行われているだろうか、と問い掛けている。そして、その問に否定的な考えを示した後、その原因となっているのは精神的独立の欠如、人間尊重の欠如、さらには世界観を確立させるような価値体系の欠如などをあげている。

この本の底流に流れていることは、この場でも触れてきたことと繋がるところが多い。35年ほど前の状況を改めて振り返り、表面上隆盛を極めているかに見える今日の科学の営みにおいて、当時から忘れられているとされたことがどれだけわれわれの意識に上っているだろうか。離れて見る科学の現状は、未だ片肺飛行を続けているかのようである。


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