mercredi 16 février 2011
解るということは自分が変わること、あるいは科学の普及
阿部謹也著 「自分のなかに歴史をよむ」 (ちくま文庫、2007年、初版1988年)
散策途中、この本を立読みする。その中に著者の師である上原専禄氏の言葉を発見。手に入れることにした。反応した言葉とは、
「解るということはそれによって自分が変わることでしょう」
この言葉はよくわかる。単に知識の羅列では駄目であることは明らかだが、知識の間のつながりを見つけるだけでも十分ではないだろう。そこから引き出されたことを自らが生きるところまでいかなければならないはずだ。阿部氏の場合には学生時代からこの問題を問い続けてきたとあるが、私がこのことに気付いたのは、フランスに渡るわずか数年前で、今から5-6年前のことではないかと思う。その時は、自分の体が反応し、動き出すような感覚を伴っていた。そして、実際に体が動くことになり、今に繋がっているような気がしている。
それでは科学で扱う現象を理解するとはどういうことになるだろうか。自然科学の理解は社会科学における解ることと同じなのだろうか。一見すると、科学における事実は理論の中にあり、人を動かす性質はないように見える。もちろん、科学者が研究に打ち込み、その中で科学者の内側が変わることは容易に推測がつくが、そこで見つかってきたことを理解した時にどれだけの人が変わる経験をするだろうか。極めて少ないような気がする。
そこで考えなければならないのは、科学の分野における知を科学の言葉のままにしておくのではなく、そのエッセンスを日常の言葉に置き換える必要があるのではないか、ということ。その過程で、人文科学や社会科学、さらには小説や哲学などの知が有効になるのではないかと考えている。それは科学の成果をわかりやすく説明するだけでは不十分であることを意味している。そのレベルを超えて、科学の知見にいろいろな角度から光を当て、そのエッセンスを抽出するところまで持っていくことが重要になるだろう。具体的には、専門用語で記述されている科学の成果を知的レベルを落とさずに別の概念や言葉に置き換える作業から始まり、それを日常の言葉に転換することではないだろうか。
昨日触れた科学が文化として成熟し、われわれの生活の中に落ち着くまでには長い道のりが待っている。科学が打ち出の小槌として便利なものを生み出す手段だと考えられているうちは、科学の普及の目的は達成できていない。科学やその背景にある精神がわれわれの日常に重要であると広く認識された時、新しい時代が始まるはずである。
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