"The first thing we have to consider is how to convert the vast amount of
information that we are accumulating into knowledge."
Sydney Brenner (2008)
information that we are accumulating into knowledge."
Sydney Brenner (2008)
二年ほど前、「哲学と免疫学」と称するグループがパリにできた。月に一度、免疫学者を主とした生物学者や哲学者の話を聞きディスカッションするという、いかにもフランスらしい(?)会になっている。世話人はコレージュ・ド・フランスのレイラ・ペリエ(Leïla Périé)、コーシャン研究所のフランソワ・アスペルティ・ブルサン(François Asperti-Boursin)、パリ第4大学ソルボンヌのトマ・プラドゥー(Thomas Pradeu)の3名の若き免疫研究者と哲学者である。
参加者はパスツール研究所、コーシャン研究所、ネッケル病院、ピティエ・サルペトリエール病院などの研究者、どこからともなく現れる哲学者や哲学科の学生、それに極普通の好事家も混じっているのではないかと想像している。参加者の数はその時で異なるが、大体10-20名くらいだろうか。これまでに取り上げられたテーマは、免疫理論、細菌と免疫、dangerという概念、免疫学的ホムンクルス、機能と統合レベル、自己と非自己、昆虫の免疫、異種認識、免疫応答の系統発生、プログラム細胞死の起源などで、科学者の演者は、Gérard Eberl(パスツール研)、Mireille Viguier(コーシャン病院)、Irun Cohen(ワイズマン研)、Anne Marie Moulin(CNRS)、Carla Saleh(パスツール研)、Anthony De Tomaso(カリフォルニア大学サンタバーバラ校)、Jules Hoffmann(ストラスブール大学)、Eric Vivier(マルセイユ免疫学センター)の各氏が含まれている。
2011年1月、Jules Hoffmann 博士の講演前
前列右からHoffmann、Périé、Marc Daëron(パスツール研)、Pradeu、
後列右から2人目はEberl、3人目はJean Davoust(ネッケル病院)の各氏
会は彼らの話を聞いた後に意見を交わすという普通のセミナー形式の他、演者が20分程度発表した後に若手の哲学者がディスカサントとして哲学から見た問題点を指摘するという形式の時もある。科学のセミナーの場合には、科学者の皆さんが忙しいためか、空論を嫌う性なのか、討論はせいぜい10分程度でそれを超えるようであれば別の場所で、というようなやり方を採っていたように記憶しているが、哲学のセミナーになると講演時間と同じくらいかそれ以上の時間が討論に費やされることもある。それがフランスのせいなのか哲学のせいなのかわからないが、最初は驚いた。そこでの討論の特徴は科学の発見を上から見るということ、実験の細かい内容ではなく、そこで見つかってきたことに含まれている意味について考えるという姿勢ではないかと思う。つまり、異なる科学の領域、さらに科学以外の領域にいる人にとっては、それぞれの枠組みの中に発見のエッセンスを入れ直して考えることになる。そこに科学の成果が日常の考え方の中に入り込む可能性があるのではないかと感じるようになってきた。
リチャード・ファインマン博士はほぼ半世紀前の講演(『科学は不確かだ!』)で、現代科学の状況をこう分析しているが、現在でもそのまま当て嵌まるだろう。
「科学が芸術や文学、人間の精神的姿勢や理解などに大きな役割を果たしていないという点では、僕は現代を科学的時代だとは思いません」
また、ジャワ文化では詩として謳いあげることができるところまで行かなければ知識とは言えないという。科学の営みから生まれた膨大なデータが横たわったまま歴史の闇に消えるのを待っているだけだとすれば人類にとって大きな損失だろう。われわれの時代を科学時代とするためには、冒頭の引用でシドニー・ブレナー博士が指摘しているように、科学知をわれわれの日常レベルにまで下ろして一般知に転換する作業が求められるのではないだろうか。現段階ではこのプロセスの必要性はほとんど理解されておらず、財政的支援もない状態にある。科学者と科学の周辺領域の人たちとの共同作業はシーシュポスの歩みのようにも見える。しかし、それこそ科学を十全に生かす上で欠かせない、しかも面白さを秘めたことになる。「哲学と免疫学」という小さな集まりの意図とは別に、このような営みの中に科学を日常に下ろす上でのヒントが隠されているように感じている。われわれが今すぐできることの一つは、このところ失われつつある態度、すなわち自らの専門から出て「領域を超えて・・・について語り合う」という態度を取り戻すことではないだろうか。そこから何かが動き出す予感がしている。
最後に、科学と周辺世界との関係を考える上で示唆に富むリチャード・ドーキンス博士の言葉を引用して終わりたい。
「科学者ができるもっとも重要な貢献は、新しい学説を提唱したり、新しい事実を発掘したりすることよりも、古い学説や事実を見る新しい見方を発見することにある場合が多い。・・・わたしは科学とその『普及』とを明確に分離しないほうがよいと思っている。これまでは専門的な文献の中にしかでてこなかったアイディアを、くわしく解説するのは、むずかしい仕事である。それには洞察にあふれた新しいことばのひねりとか、啓示に富んだたとえを必要とする。もし、ことばやたとえの新奇さを十分に追求するならば、ついには新しい見方に到達するだろう。そして、新しい見方というものは、わたしが今さっき論じたように、それ自体として科学に対する独創的な貢献となりうる」
(「利己的な遺伝子」1989年版へのまえがき)
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