mardi 27 mars 2012

ミシェル・フーコーにとってのニーチェとハイデッガー、そして3種類の哲学者


ハイデッガーはいつもわたしにとって主要な哲学者でした。ヘーゲルから読み始め、マルクスに行き、1951年か1952年からハイデッガーを読み始めました。それからもう覚えていませんが、1953年か1952年にニーチェを読みました。ハイデッガーを読んだ時にとった山ほどのノートはまだここにあります。それはヘーゲルやマルクスについてのノートより重要なものです。わたしの哲学的な歩みのすべてはハイデッガーを読んだことによって決定されました。しかし、そこに導いたのはニーチェであることは認識しています。ハイデッガーを十分に知りませんし、「存在と時間」も最近のものについてもほとんど理解していません。ハイデッガーよりはニーチェの方をよく知っています。にもかかわらず、この二人の哲学者との出会いは根源的なものでした。もしハイデッガーを読んでいなかったとすれば、ニーチェを読むようにならなかったかもしれません。50年代にニーチェを読もうとしたのですが、ニーチェ単独では全く興味を引きませんでした。ニーチェとハイデッガーに関する限り、それは哲学的な衝撃でした。しかし、わたしはハイデッガーについて書いたことは一度もありませんし、ニーチェについてもほんの短い一編の論文しか書いていません。しかし、この二人はわたしが最も読んだ著者なのです。共に考え、共に仕事をするけれども彼らについては書かない一握りの著者を持つことは重要だと思っています。いつの日か彼らについて書くことがあるかもしれません。しかし、その時は彼らは最早わたしの思索の道具ではなくなっています。最後になりますが、わたしにとって哲学者は3つに分類されます。わたしが知らない哲学者、知っていて、そのことについて語る哲学者、そして知っているけれでもそれを語らない哲学者です。

Michel Foucault, Le retour de la morale, 1984
(entretien avec G. Barbedette et A. Scala)




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