vendredi 19 octobre 2012

自分にとっての世界の全体をどこに見るのか


自分が投げ出されているこの世界

その全体をどこに見るのか

人それぞれだろう

家族、仕事場、仕事社会、地域社会、国、そして所謂世界

人は自ら見ている世界の中で力を尽くし、幸せを求め、認められようとする

先日のヘーゲルさんの言では、そこに真の自由はない

 しかし、この地球を超えた世界がその人の世界の全体だと仮定したら、一体どうなるだろうか

その時、自分を見ているのは自分しかいなくなる

自らの内なる基準に合わせて、もう一人の自分が自分を評価することになる

突き詰めると、その人間だけが残る

何か本質的なもの、精神、思惟に行き着く

ヘーゲルさんに肖れば、その時、精神は自らに帰還する

自分が自分を振り返ることから意識が生まれ、そこに絶対的自由が訪れる

視線はいつも遥か彼方に向かい、同時に内に向かっているのである

それは高貴な生き方かもしれない

それこそが哲学的生き方なのかもしれない

そこまで行かなければ、すべては虚しいのではないか

そんな想いとともに目覚めたパリの朝




この文章の「自分」を「あなた」に置き換えてみる

すると、全体の印象がガラリと変わり、響きがさらに広がりを見せるように感じられる




mardi 16 octobre 2012

理性的に 「こと」 を振り返る時、完全な自由が訪れる


何か「こと」があった後、カフェに落ち着く

そして、その「こと」を振り返る時、至福の時が訪れる

それはなぜなのか、不思議に思っていた

ヘーゲルさんはこんなことを言っている
「精神の自分自身への帰還が、精神の最高の、絶対的目標だ。・・・このことによってのみ精神は自分の自由を獲得する。・・・思惟のうち以外の如何なるものにおいても、精神はこの自由に達しない。例えば直観の中、感情の中では、わたしは規定された自分を見出すのみであって、私は自由ではない。私が自由であるのは、私がこのわたしの感覚に関して、やはり意識を持つ場合である。・・・ただ思惟においてのみ、あらゆる外的なものが透明となって消え失せるのである。精神は、ここで絶対的自由である。理念の関心、即ち哲学の関心は、この表現によって言いつくされている」 

わたしなりに言い換えると、こうなるだろうか

外から情報が入ってくる

それに直ちに反応するのが感情である

それに対する感覚的に生まれる考えのようなものは直観と言えるだろう

そこに留まる限り、人は自由ではありえない

それはその状況に制限されているからである

外からの刺激に対して感じたものを理性的に振り返ることにより意識が生まれる

この作業は思惟と言えるもので、この思惟がなければ意識は生まれない

生の現実から得られた情報をリフレクションすることを思惟と言っている

この過程によって初めて現実の制限から逃れることができ、自由に達することができる

それこそが哲学の本質である


 カフェでの時間は、まさにこのリフレクションの時間に当たることになる

気付いてはいなかったが、これが自由の感覚を呼び込んでいたのかもしれない

それこそが至福の感情を生んでいたのかもしれない


そんな想いが湧いてきた相変わらずの曇りが続く朝のバルコン




dimanche 14 octobre 2012

アラン・バディウさんによる哲学を聴く



アラン・バディウさん(Alain Badiou, 1937-)のお話を聴く

哲学と実証主義(positivism)とニヒリズムの関係について

以下に、聴いたままのポイントを

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哲学は知識か

科学はそうだろうが、哲学はおそらく違うだろう

知識には対象があり、対象との間に距離がある

哲学は対象と知識という関係を持っていない

哲学は知識でも、対象でもない

哲学自体が疑問なのである

ソクラテスの言葉、「わたしの知っていることは、わたしが何も知らないことである」

否定から始まっている

何も存在しないことを知り得るのか

存在しないものについての知識はない

哲学が知識でない理由がここにもある

"to be" と "to exist" の間にある距離

これこそが哲学的問題である

哲学は対象と知識には還元できない

実証主義は対象、知識だけを扱う

それは分析的な視点であり、科学である

実証主義はすべてに客観的であることを求め、哲学に対しても例外ではない

すべての科学に共通する科学の本質を問うという視点は科学にはない

それは "being" の問題で、個々の科学の中の問題ではない

分析的視点に立つと、否定から始まるものには向かわない

"existing" にしか向かわない



オントロジー (存在論)とは

"to be" と "to exist" の間にある距離を問題にするもの

知識でないとすれば、継続はない

知識は現状を伝達していく

反復であり、継続であり、蓄積である

知識には対象があるからである


哲学は継続できない、常に始まるのである

すべての哲学者は始める

どのように始めるのか

過去の哲学者の蓄積を示し、そこから続けるように始めるのではない

過去の新しい解釈から始めるのである

否定から、無から始める

対象から、知識からは始められないからである

何も知らないとは、無とはどういうことか

それは全くの主観的な経験である

原始的な負の経験である

対象(客観性)のない主観性

デカルトの場合は、絶対的懐疑であった

それは主観的な世界の破壊

理性的なものではなく、実存的な経験であった

 キェルケゴール(Søren Kierkegaard, 1813-1855)もハイデッガー((Martin Heidegger, 1889-1976)も同じ

 ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716)の「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」も同じ問いである

デカルトは絶対的懐疑から経験そのものに至った

対象としての主体(自己)に至った

無から存在の肯定に至ったこの過程こそ哲学の勝利であった


ここで勝利できなければ、ニヒリズムに陥る

主観的な経験から出発するものの無から抜け出すことができない

あるいは、あるがままの世界を否定して無に留まる

そして、知識には意味がないとする

ニヒリズムは哲学の敵であり、実証主義の敵でもある

もう一つの哲学の敵は実証主義である

すべての重要なものは知識であるとする

哲学をナンセンスであり、夢想であると揶揄する

哲学は実証主義でもなければニヒリズムでもない

ただ、初めはある意味ではニヒリズムである

負の経験があるから哲学は真剣なのである

問題は、最初の経験を超えられるかどうかである

そこを超えることができると、最終的には知識に還元されることになる

そこには決意が求められる

哲学は実証主義ともニヒリズムとも戦わなければならないのである



哲学は音楽の調性、音質 (tonalité) を聴くように読むこと

偉大な哲学にはニヒリズムや実証主義の要素が混じっているからである

それを聴き分けること


 
負の経験から出発して肯定にいたる運動

0 → 1

これがバディウさんの哲学であった