lundi 26 décembre 2011

映画 A Dangerous Method、あるいはカール・ユングという人生



夜の散策中、タイトルに惹かれてシネマの中に入る。

"A Dangerous Method"


案内を読んでみると、カール・ユングに纏わるお話だ。フロイトも出てくることがわかり、観ることにした。昨年、東京で開いた会でユングの言葉についても触れていたからでもある。

この世に偶然はない。これはわたしの底を流れるアイディアになっている。この映画でユングも同じ考えの持ち主だったことを知り、驚く。この世の出来事には何かの意味があると考える傾向があったのだ。

ユングとフロイトが決別したことは知っていた。精神分析の分野は 「いずれ」 のリストの相当先にしかない。その背景について調べるところまでは行っていなかった。ただ、この映画で両者の考え方の違いが少しだけ見えたような気がした。

フロイトはユングを精神分析という自らの領域の後継に、と考えていた。フロイトは開拓しつつあった領域を科学的批判に耐え得るものにしようとしていた。彼の周りには多くの批判者がいたのだ。

一方のユングはフロイトが科学的として囲い込んだ領域を超えようとする。この世に偶然はなく、すべてに意味があると考えるような人間である。テレパシー、神秘主義、シャーマニズムなどにも興味を示す。

患者に対する態度でも二人は意見を異にしていた。フロイトは患者のあるがままを観察し、分析するところで止めようとする。ユングは患者の持てるものを十全に発揮できるようにしたいと考えていた。患者への踏み込みがより強いと言えるのだろうか。両者の決別は必然だったのかもしれない。

カナダ人監督デヴィッド・クローネンバーグさん (David Cronenberg, 1943-) のインタビューによると、この映画のもう一つの要素として、台詞としても語られていたが、人種の問題があることがわかる。フロイトはユダヤ人だが、ユングは言ってみればアーリア人。当時のオーストリア・ハンガリー帝国ではユダヤ人が虐げられるということは少なかったようだが、かと言って社会の中心を占めるということもなかった。フロイトがユングを取り込もうとした背景には、自らの精神分析が社会的認知を受ける上で助けになるのではないかという思いもあったとみている。ユダヤ人で無神論者のクローネンバーグさんは、ユングよりはフロイトの立場にシンパシーを感じているようだ。

今のわたしから見ると、どちらが正しいのかわからない。二人の立場が可能だということを理解できるようになっているからだ。それぞれの進み方に意義を見出していると言ってもよいだろうか。そんな曖昧なところにいる。もう少しその中に入ってみなければ、それ以上のことは言えそうにない。






ところで、この映画のメイン・テーマはユングの女性関係である。1903年、裕福な家庭の出のエンマ・ラウシェンバッハと結婚。5人の子供を授かり、エンマが亡くなるまで夫婦関係は維持する。彼の人生にはこの他にも女性が登場する。今回の主人公である彼の患者だったザビーナ・シュピールライン。映画の最後で名前だけが出てくるトニ・ヴォルフ。ユングは一体どのような内的人生を歩んだのだろうか。これまでになく興味が湧いている。それとは別に、ヨーロッパのゆったりした空気とフロイトのシガー姿を味わっていた。




ユングさんが1914年から1930年にかけて書いたご自身の 「内なる大聖堂」 (cathédrale intérieure)とも言える「赤の書」が今年、フランスで翻訳された。この書は彼の死後厳重に保管されていたが、2年前にアメリカで出版され、その翌年には日本でも翻訳されている。格段にお高いが。

Amazon.com (The Red Book: Liber Novus, 2009; $112.21)
Amazon.co.jp (The Red Book, 2009; 15,693円)
Amazon.fr (Le Livre Rouge, 2011; Euro188,10)
創元社のサイト (「赤の書」、2010; 42,000円)









科学的な観察と治療に止めようとするフロイトさんの立場と科学を超えて神秘主義にも興味を持ちながら、患者の生を十全に発揮させようとするユングさんの立場。自らの性向を比較してみると、ユンギアンの要素を否定できそうにない。より正確には、理性(科学的な思考)を徹底した上で、神秘の世界にも目を閉じないでいたいと思っているのではないだろうか。それが存在すると感じた時には科学で説明できないからと言って捨て去るのではなく、その先に行ってみたいと思っているようだ。そこにこの世界の豊かさが隠れているようにも見える。このような世界の観方は、科学主義に染まってしまうとなかなか採れないはずのものである。

今年はユングさんが亡くなって50年目の年であった。


カール・グスタフ・ユング
(1875年7月26日 - 1961年6月6日)
Carl Gustav Jung




samedi 12 novembre 2011

存在が本質に先行する L’Existence précède l’essence


Jean-Paul Sartre
L'Existentialisme est un humanisme
(Folio/Essais)


存在が本質に先行する。これが実存主義の本質で、ハイデッガーにも見て取れる人間の捉え方だという。

彼の提唱する実存主義が2つの方向から非難されていて、1945年に行われたコロックで自らを弁護したのがこの書となった。一方の非難は、実存主義はヒトを絶望の淵に誘うもので、解決法がないため瞑想的哲学へ行かざるを得ない。瞑想というのは一つの贅沢なので、この考えがブルジョワ的であるとして非難するのは共産主義者。もう一方は、人間の醜い側面 (l'ignominie) を強調し、卑劣さ (le sordide)、胡散臭さ・いかがわしさ (le louche)、不品行 (le vicieux) を至るところに明らかにし、人間のよいところを見ようとしないとして非難するのはキリスト教者。

最初の方に、無神論実存主義 (l’existentialisme athée) という項目があり、その中に私の見方に近いものが言葉になっていた。これは先日、別ブログ 「フランスに揺られながら」 に漢江様から何のために外国語を学ぶのかについてのコメントがあり、その答えとして次にようなことを書いた。

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同様のことがフランス語の場合にも当てはまります。この世界に入る切っ掛けは、全く予想もできないものでしたが、とにかく始めました。これも何かのためにということはありませんでした(カテゴリ 「フランス語学習」 で少し触れています)。しかし、その後の経過を見ていると、フランス語を読むうちに、「言葉」 の意味を考えるようになりました。その結果、日本語をより深く読めるようになったと感じています。また、フランス文化に触れるうちにフランス人の頭の働きを感じるようになりますので、その視点からしか見えない世界を見ることができるようになりました。またフランス語のブログを始めるようになってからは、私のレベルの中ではありますが、フランス語圏の方ともお話ができるようになりました。これらの経験は私を促す効果があったようで、私自身の人生を見直さざるを得ないような重要な影響がありました。

以上のような私の経験から見ると、何のために外国語を学ぶのかは、学びを始めなければわからないということになります。これは私自身の事に当たる時の、まず始めてから後でその意味を探るという姿勢とも関係があるのかもしれません。

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サルトルの方には次のようにある。

L’existentialisme athée, que je représente, est plus cohérent. Il déclare que si Dieu n’existe pas, il y a au moins un être chez qui l’existence précède l’essence, un être qui existe avant de pouvoir être défini par aucun concept et que cet être c’est l’homme ou, comme dit Heidegger, la réalité-humaine. Qu’est-ce que signifie ici que l’existence précède l’essence ? Cela signifie que l’homme existe d’abord, se rencontre, surgit dans le monde, et qu’il se définit après. .... L’homme n’est rien d’autre que ce qu’il se fait.

ここでは、サルトル自身が無神論実存主義者であり、この考えが理に叶っているとして次のように書いている。もし神が存在しないとしたならば、少なくとも存在が本質に先行する存在、あらゆる概念で説明される以前に存在する存在があり、それが人間で、ハイデッガーの所謂人間的実在性というものがあると無紳論実存主義者は宣言する。それでは、存在が本質に先行するとはどういうことか?それは、まず人間が存在し、その人間同士が出会い、世界に出現する。そうした後に、自らを定義するということである。・・・人間はつくられるもの以外の何物でもない。


人間存在の捉え方、あるいはこの世の歩き方が彼らと近いことに驚いている。

(2007年7月20日)




dimanche 6 novembre 2011

更地から始める、そして目に見えないものを理解するということ



フランスのものを読むようになり、どうして何の役にも立たないようなことに (もちろん、それまで私が持っていた基準によれば、ということだが) 疑問を持つのか、しかもあらかじめ決められた目標に向かうのではなく、方角が見えないところから歩み始めるのか、という不思議を抱えることになった。それは同時に、人間の精神の中で繰り広げられている目には見えない 「もの」 を言葉にしようして人生を生きている人、あるいは人生を送り死んでいった人たちが山ほどいることを意味していた。

それではなぜ、それまで読んでいた英語の世界ではこのような疑問を感じなかったのだろうか。英語とフランス語文化の本質的な違いなのか、単に触れる順序だけの問題だったのか。英語に触れてから相当の時間が経つ。その結果、英語の世界が日常になり、英語が仕事の言葉、何かの役に立つ情報を得るための言葉になっていた可能性がある。一方のフランス語は生きるために必要な言葉ではなかった。しかも窓口になったのが哲学だったこともわたしの中での抵抗感を増幅する原因だったのかもしれない。

このようなズレを感じた背景には一体何があるのだろうか。ひとつには、更地に枠組みを作るところから始めるかに見える彼らの営みに、それまで感じたことのない自由な精神の動きを見たことが挙げられる。あらかじめ決められた目標に向かうのではなく、目標を決めるところから始める自由と困難。一つの問に一つの答えという直線的な頭の使い方ではなく、いろいろな点を繋ぎ合わせてまとまりを付けるという頭全体を使う運動の面白さ。同様の違いは、直線的な解を求める仏検と複雑系を解くようなDALFの問を実際に体験して感じることになった。




科学の発展を振り返ると、最初は目に見える物を記載したり、分類したりするところから始まる。それがある程度進むと目には見えない領域が現れる。そこでは哲学的な思考が重要だったはずである。そこで何かを言うことのできる人は飛び抜けた想像力を持つ一握りの天才なのだろう。そして、その目に見えない物を見ようとする人間の意志が技術を生み、やがてそれが見えるようになるというのが科学の歴史の一側面ではないだろうか。言い換えれば、科学は物をこの目で見ようとする人間の試みのような気がしてくる。現代においても哲学が目には見えないことについて発言し、科学に貢献することはできるのだろうか。それは並大抵のことではなさそうだ。

「科学とは、物を見ようとする試みである」
"La science, c'est un essai de voir des choses."


一方、科学との比較で文系の領域を眺めると、最後まで目には見えない 「もの」 (概念など) を言語化することによりわかったような気分になるところがある。そこには言語の持つ限界があり、特に外から入ってきた者にとって、その理解には大変な困難が伴う。こちらに来て受けた講義で困ったのが、まさにこの点だった。翻って、目に見えないものを理解することが本当にできるのだろうかという疑問が湧いてくる。科学者はポンチ絵を頻繁に用いる。その絵を見ることにより、理解したような気になるのだ。この状況は文系の学問にも当て嵌まるのではないだろうか。つまり、言語化された 「もの」 を自らの頭の中で視覚化できないと理解したと感じないのではないか、ということだ。未だ想像の域を出ないが、科学の領域から入ってきて数年の者にはそう見える。

「理解するとは、ものを視覚化することである」
"Comprendre, c'est visualiser des choses."




samedi 5 novembre 2011

東洋のフランシス・ベーコン、徐光啓


徐光啓 Xu Guangqi (1562–1633)


中国最高のルネサンスマン Polymath で、東西の科学交流を最初にやった明朝末期の科学者である徐光啓の業績を振り返る行事が2007年10月上海で開かれた。

1562年に生れた徐は官吏になるように育てられたが、1600年に運命の時 (a watershed moment) が訪れる。中国に最初に居住が許された最初の西洋人にしてイエズス会のイタリア人学者マテオ・リッチ Matteo Ricci (1552-1610) に会い、その虜になったのである。それから2人の交流が始る。それは2人の個人の交流でもあるが、同時に東西文化の交流にもなった。彼はリッチの助けを借り て、自身が 「幾何」 の名前を付けたユークリッド幾何学を訳している (上の写真)。リッチも同様に孔子をラテン語に訳している。これらの経験から、徐は西洋の考え方に学ぶことの大切さ、さらに突き詰めると科学的にものを見ることの重要性に気付き、それを説くようになる。

1604年に学位をとった後は順調に出世している。彼の興味の中心は農業の改善で、中国を飢饉から救い、ダムや灌漑、食料政策の改善に努めた。それだけではなく、中国暦をより正確なものした。正式にその成果が取り入れられてのは彼の死後、1633年のことであった。このように幅広い領域に興味を示したためレオナルド・ダビンチや近代科学の父フランシス・ベーコンと比肩される。

リッチに対する感謝の気持ちからなのか、彼は1603年にローマ・カトリックに改宗し、Paul Xu Guangqi として洗礼を受けている。このことについて中国政府は全く触れていない。敬虔なクリスチャンではあったが、同時に孔子の思想にも心酔していたと言われている。



jeudi 3 novembre 2011

ジュール・ボルデの言葉


ジュール・ボルデ Jules Bordet
(Soignies le 13 juin 1870 - Bruxelles le 6 avril 1961)


« On dit souvent que la vie est belle : elle l'est pour ceux qui en jouissent, elle l'est davantage encore pour ceux qui cherchent à la comprendre. » (Jules Bordet)

  「人生は美しいとよく言われる。人生を堪能している人にとってはその通りである。さらにそれを理解しようとしている人にとっては尚更である。」 (ジュール・ボルデ)


ベルギーに生れた彼は、1892年にブリュッセル自由大学 (Université Libre de Bruxelles) で医学を修める。1894年からはパリのパスツール研究所、イリヤ・メチニコフ Ilya Metchnikov (1908年、免疫研究によりノーベル賞受賞) の研究室で研究した後、ブリュッセルにパスツール研究所を設立。1906年には百日咳菌を発見。学名を Bordetella pertussis と言い、彼の名前が付けられている。補体結合反応という免疫反応の原理も発見。免疫研究の功績により1919年にノーベル賞受賞。パスツール研究所の免疫研究棟 (メチニコフ・ビル) のセミナー室に彼の写真が飾られていたように記憶しているが、、。



mardi 1 novembre 2011

哲学者とは



講義を受けていると言葉の定義が常に問題になる。それがわからないと話についていけない。「・・・とは」 という問である。しかし、これを始めるととんでもないことに気付く。何一つまともに答えられるものがないのである。しかも、単純な言葉になればなるほど難しくなる。それを理解するためにはあらゆるところに目をやらなければならないのと、あらゆるところに関わってくるからだろう。普通は、鴎外の 「かのように」 ではないが、そのほとんどをわかったようなつもりで生きている。そうしないと生きてゆけない。例えば、「時間とは」、「空間とは」 などと問い始めたら、それぞれ一生かかっても終らない問題になる。おそらく、哲学者とはそれをやる人間なのだろう。普通の人が何気なくやり過ごしていることの前で立ち止まり、それを問い直すという作業に人生を賭ける人種のような気がしてきた。そのような人種が如何に少ないかは、これまで何度か触れてきた。この年代になると、これこそが生きることなのだと実感できるようになるのだが、、。

ハンモックでも触れたが、今年の正月のテレビで各界の人の人生を10分程度にまとめたものを見ながら、一人の人間は一つの問題に答えを出すためにこの世に現れたのではないか、という感慨を持っていた。その意味では、一人ひとりが広い意味で哲学をやりながら生きているのかもしれない。前回も触れたように、その結論が最後の最後にならなければ出ないような、そんな人生を歩んでみたいものである。

(2007年11月7日)




lundi 31 octobre 2011

リッカルド・シャイーさんのベートーベン交響曲第9番を聴きながら



切っ掛けははっきりとは思いださない。おそらく、ル・モンドのサイトを開けた時に広告が目に入ったような気がしている。ひと月前のことだ。すぐにプログラ ムを調べ、注文していた。パリはもう5年目に入ったが、初めての本格的コンサートになる。別に意識的に避けていたわけではないが、最初の2年くらいはそん な余裕などなく、後の2年はそんな気分にならなかった。どこかに学生には贅沢ではないかという気持ちもあったのかもしれない。日常に音楽や音楽的なものが 溢れ、アパルトマンを出るといつも不思議の世界 (詩的で音楽的?) が待っているので強い欲求にまで至らなかったのだろうか。

コンサートはリッカルド・シャイー (Riccardo Chailly, 1953- ) 指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏によるベートーベンの第9交響曲合唱付きである。ビブリオテークからサル・プレイエルに出掛ける。ゲヴァントハウスを引き連れてベートーベンの交響曲全曲演奏をしていたようだ。




プログラムによると、最初の曲はフリードリヒ・チェルハさん1926- ) がベートーベンの第9の前に演奏する曲としてゲヴァントハウスから依頼されたもので、最初の反応は Non ! だったようだ。しかし、日が経つにつれて曲の冒頭が頭に鳴り響き、菌糸体のように増殖しはじめたという。そして、最初の姿がどうだったのかわからなくなる ほどの変容を遂げ、一音も書くことなく混沌とした中から形が見えてきた時、委嘱を受けることにして一気に書き上げたとのこと。この一節には肖りたいものだ と強く反応していた。ただ、曲はあまり印象に残っていない。




ベートーベンの第9は何度も聞いているはずだが、実演はそれほどない。曲の外から何気なく聴く時と今日は明らかに違った。曲の内側から聴いているという感 覚が常に付き纏っていた。そのせいだろうか。これまで聴いたことのない曲に何度聞えたことだろう。シャイーさんの表情の付け方に新しいところもあり、こん な曲だったのかという思いで実に新鮮な経験になった。合唱が始まるとみなさんがどんな姿で歌っているのかをオペラグラスでたっぷりと味わわせていただい た。人間が声を出して歌うというのも随分と野性的な運動であることに気付く。叫びのようなところなど尚更だ。

演奏を聴きながら、もう何十年も前のカーネギー・ホールでの演奏を思い出していた。指揮はクルト・マズアさん。そのすぐ後にロリン・マゼール指 揮のクリーヴランド管弦楽団を聴き、音量の違いに驚いたのだ。ゲヴァントハウスの演奏には音そのものの迫力に欠けるというのがその時の印象で、ヨーロッパ とアメリカの違いを実感させられた最初の経験になった。近いうちにアメリカのオーケストラを聴いて当時の印象を確かめてみたいものだと思っていた。




ところで、バイオリンに Kana Akasaka という名前が見えた。イタリア人がドイツのオーケストラをパリで指揮する。隣の席からはイタリア語や聞き慣れない言葉が聞こえる。ヨーロッパにいれば当た り前だが、日本からの目で見直せば、異なる文化の中を人がよく動いていることに驚く。どこか羨望にも近い驚きである。



dimanche 23 octobre 2011

「生きるとは、詩的に生きること」 Vivre, c'est vivre poétiquement


Le chemin de l'espérance (septembre 2011)
Stéphane Hessel & Edgar Morin


先日、小さなリブレリーで見つけたこの本を読んでみる。第二次大戦中レジスタンスだったお二人、ステファン・エッセルさん (1917年10月20日ベルリン生まれ、94歳) とエドガール・モランさん (1921年7月8日パリ生まれ、90歳) の184歳コンビによる 「希望の道」 である。

現代世界は個別の現象が独立してあるのではなく、すべてが一つに繋がっている。例えば、核兵器の増殖、人種・宗教紛争の継続、バイオスフィアの破壊、制御不能な世界経済、お金による支配、経済・技術優先による野蛮などの問題はわれわれ一人一人を取り巻く問題になっている。この認識がこの本のベースにあり、そこからどこに向かうのかを探っている。最終的には、それぞれの人間が 「善く生きること」 ができるような社会、個人の資質が花開くように生きられる社会を目指すべきだというところに辿り着く。

そのためには、物を持つことによる満足から精神世界の充実への転換、数から質への転換、異分子排除から開かれた心 (共感、同情、心遣い) への転換などが語られている。教育についても触れられている。中学校では現代社会を取り巻く問題が地球規模になっていることを踏まえ、これまで分離されていた教科を絡み合わせて教えること。それから知識を教えるだけではなく、知識とは何かを教えること、同様にヒューマニズムを教えるだけではなく、人間とは何かを生物学的、個人的、社会的側面から教えて、人間の歴史や人間を取り巻く状況、矛盾、悲劇をはっきり意識させることが重要になると主張している。これらは哲学的視点を導入することを意味しているのだろう。

われわれが 「善く生きる」 ためには個人の持てるものを開花させることが前提になる。そして、「生きるとは、すなわち詩的に生きることである」 という言葉が現れる。これを見た時、もう5年も前に出遭っているマルセル・コンシュさん(1922 年3月27日生まれ、89歳)の言葉と重なり、嬉しくなる。人間が持っている詩的な必然性を表現することこそ善く生きることになるという考え方。そこに向けての政策を考えるというやり方。外界の変化を感知する感受性とその情報を受け取った後の反応が実にしっくりと私の中に入ってくる。


マルセル・コンシュ MARCEL CONCHE (III)
(2006-09-27)
人生を詩的に POÉTISER LA VIE (2006-10-01)




mercredi 12 octobre 2011

クリスチャン・ド・デューブさんの人生と世界観

Christian de Duve


クリスチャン・ド・デューブChristian René de Duve, né le 2 octobre 1917, en Angleterre)

著者はイギリス生まれのベルギー人で、細胞内小器官であるリソソームペルオキシソームの発見により1974年にノーベル医学生理学賞を受賞している。ベルギーのルーヴェン・カトリック大学Katholieke Universiteit Leuven) で研究の後、ニューヨークのロックフェラー大学でも研究室を持ち、大西洋を跨いで活躍された。1917年生まれなので、御歳94。


この本は簡素な自伝で、若き日の教育環境や研究生活を振り返り、いくつかの分岐点があったことを指摘している。そこにジャック・モノの言う偶然と必然の組み合せを見ている。細胞の生化学、細胞生物学に集中した後は次第に大きな絵に興味が移り、生命の起源、人類の歩み、脳機能、さらには 「意味」 についての思索へと進んで行く。

ド・デューブさんはわれわれの遺伝子の中には 「集団のエゴイズム」 が生き残っていると見ている。異なる者に対する攻撃性が潜んでいて、「遺伝子の原罪」 の虜になっているという。ド・デューブさんのお国も言語による対立が表面化している。また、「核ホロコースト」 という言葉を使って最近の日本の状況にも触れている。この状態を変える希望は、遺伝子の機能を後天的に変えるエピジェネティックな作用の中にあるのではないかと言っている。それは教育で、そのためには教育者が必要になる。教育者を求めるには師や賢者が必要になる。たとえそのような人が稀に見つかったとしても、その声に耳を傾ける人たちがいなければならない。

ド・ デューブさんは子供の頃、イエズス会で教育を受けている。それから科学の道に入り、後年ダーウィンの進化論を研究することになる。そして、80年の歳月を経て、教育者となるべき人が二千年前にすでにいたことを悟ることになる。それがキリストだと気付いたという。その教えが遺伝子の重荷からわれわれを救うと考えており、東洋にも例えば仏陀や孔子などの師がいるはずであると語っている。




現代にはいろいろな対立がある。両者の差異をなくそうとするのではなく (それは不可能だろう)、対立を認め、それを乗り越える方向性を探ることがこれからやらなければならないことだろう。そのためには、できるだけ多くの哲学者、道徳家、科学者、他の領域の思想家が 「知的誠実さ」 (l'honnêteté intellectuelle) を以って両者が合意できるところを探さなければならないと考えている。そして、ド・デューブさんにとって基本になるのはキリストの言葉である。この本では l'honnêteté intellectuelle という言葉が何度か使われており、その度に自らの心に問い掛けていた。

デカルトの心身二元論についての否定的な考えも語られている。死する身体と永遠の精神、物と心、res extansares cogitans。この異なるものが松果体で相互作用とするとデカルトは考えた。ド・デューブさんは単純に論理的に考えて行く。もし精神と物質が異なる本質を持つとした場合、どのようにして相互作用が可能になるのか、という疑問である。そして、物質と精神は異なるのではなく、一つの現実の別の面が現れたもので、この二元論は一元論にその場を譲らなければならないと結論している。

ド・デューブさんを煩わしたもうひとつの二元論がある。それは創造主 (神) とその作品が別物であるとする二元論である。19世紀初めにウィリアム・ペイリー (William Paley, 1743–1805) が 「自然神学」 の中で、時計の比喩を使って創造主の存在証明をしている。道に転がっている時計を見た時、その複雑な構造物はそれを造った人の存在を考えなければならない。同様に、宇宙の複雑な存在を目にした時、創造主を想定しないわけにはいかないと考えた。そこで出てくるのが、一体その創造主を誰が創造したのかという疑問だ。幹細胞のように、創造主が自分自身をも創造したのか。神学者が言うように、創造主は創造されるものではなく、そこにあるものなのか。あるいは、スピノザ (1632-1677) が唱える汎神論pantheism) のように、自然そのものが神なのか。物理学者の中には創造主を考えることなく、物理的な原理の想像を絶する偶然の成果として生命と知性が生れたとする新たな自然神学も生れている。ド・デューブさんは信仰やこれらの推測から距離を取り、上に述べた一元論で行きたいと考えている。



samedi 24 septembre 2011

頂点と地獄を見た二人の科学者: フリッツ・ハーバーとロバート・オッペンハイマー


「化学兵器の父」 と言わるフリッツ・ハーバー (1868–1934) という化学者がいた。非常に野心的だったようで、ユダヤ人だったが後に改宗している。第一次世界大戦で使われた毒ガスの開発に関与。同じく科学者であった妻のクララはその方向に同意せず、1915年銃で自殺。息子も自殺している。1917年に再婚。1918年にはアンモニアの合成などの業績でノーベル化学賞を受賞。後にナチがガス室で用いることになるツィクロンBのもとになったツィクロンAを作る。ベルリンではアインシュタインとも親交があったが、ヨーロッパの将来の捉え方が全く異なっていた。ドイツに忠誠を誓い、社会に受け入れられるために努めてきたハーバーだったが、ナチの台頭で国外に逃れざるを得なくなる。最終的にはスイスで亡くなり、最初の妻と一緒に葬られている。アインシュタインはハーバーの人生をドイツのユダヤ人の悲劇であると語っている。

彼の人生が語られているBBCのサイトがある。 The Chemist of Life and Death





ハーバーと重なるロバート・オッペンハイマー (1904-1967) の複雑な人生も眺める。この映画では証言がふんだんに取り入れられていて、実像が浮かび上がる。若き日の彼は感情面での発達にバランスを欠き、未熟な人間として映ったという。ハーバード大学を3年で卒業後、ケンブリッジ大学で実験物理学を始めるが科学者としての才能に疑いを持つ。しかし、ドイツで理論物理学をやるようになり、自分の進むべき道を見つける。25歳にして世界的な研究者としてアメリカに戻り、カリフォルニアで教え始める。講義は難解を極めた。彼の言葉は常に計算されていて、心から出ているようには見えなかった。それは高慢さからなのか、優越性を示すためだったのか。いつもステージに上がっているようで、同僚としての付き合いは難しかったようだ。

常に科学だけに興味を持っていたが、1936年から社会の動きにも興味を示すようになる。最初の恋人になる医学生が共産党員だったこと、妻になる女性も元共産党員だったことも関係しているようだ。彼自身が党員だったという証拠は残っていないようだが、妻だけでなく彼の弟も弟の妻も共産党員だったことからシンパシーは感じていた。国家の機密を知り過ぎた男として厳しい監視下に置かれる。原爆の後、冷戦期に入ると国への忠誠が問われることになった。

科学者としての最高の栄光に辿り着き、それがために地獄をも味わうことになった二人の科学者。第一次大戦に関わったフリッツ・ハーバーと第二次大戦に関わったロバート・オッペンハイマー。いずれも複雑な人間だった。科学者としても優秀だった。科学を進める魔力的な力をこの二人は内に秘めていた。今は単純に裁くのではなく、それぞれの中をもっと知りたいという気持ちが湧いている。