日曜の朝、いつもの強い光をバルコンで浴びながら目を通す。朝の強い光を浴びた紫煙を眺めなfがら。余談だが、一日の内で一番魅力的な紫の色は朝に見られることがわかってきた。強い朝日の中でその色に芯ができ、紫が美しさを増すようだ。
今朝はこの本のプレリュード "Un dîner au River Café" 「リヴァ―・カフェでのディナー」 を読む。リヴァ―・カフェ (The River Cafe) はニューヨークのブルックリン・ブリッジたもとにあり、マンハッタンを望むことができる。しかし、その内容は観光気分を誘うものとは程遠い。人生での大きな出来事は計画されたものではなく、上から落ちてくる。
2001年11月、トマス・マンを専門にしている著者のリーメンさんは悪についての会議のためアメリカを訪れる。専門家との会合のほかに、リヴァ―・カフェでのディナーが加わっていた。それはエリザベート・マン・ボルジェーゼ (Elisabeth Mann Borgese, Munich, April 24, 1918 – St. Moritz, February 8, 2002) さんとのランデブー。名前を見てもピンとこないかもしれないが、作家トマス・マンの末娘で、1918年ミュンヘン生まれ。両親に連れられ1933年にスイスへ、そして38年にはアメリカへ渡る。翌年には36歳年上のアンチ・ファシストのイタリア人作家ジョゼッペ・アントニオ・ボルジェーゼ (Giuseppe Antonio Borgese, 1882–1952) さんと結婚。戦後は世界平和を目指した運動に携わるが、夫の死後はより現実的に環境を対象にした運動を進める。
彼女はその他にも20世紀を代表する人たちと交友を深めている。例えば、ウラジミール・ホロヴィッツ、ブルーノ・ワルター、アインシュタイン、ジャワハルラール・ネルー、インディラ・ガンディ、W・H・オーデンなど。2001年には彼女は80歳を越えていたが、カナダのノヴァスコシア州ハリファックスにあるダルハウジー大学政治学部教授として国際法を教えていた。1999年にオランダに彼女を招待したのを機に交流が始まり、2001年6月にはその半年後にアメリカで会う約束をする。11月7日(水曜日)午後7時半、リバー・カフェで。
しかし、予想もしないことは常に起こるものである。その年の9月11日にワールド・トレード・センターに飛行機が突っ込んだ。それからその日、もう一人が加わることになった。ジョーゼフ・グッドマンという方で、若き日にカーティス音楽院でイザベル・ヴェンゲロヴァ (Isabelle Vengerova) の教えを受けた仲間であり、後でわかったらしいが、彼女と同じ船でニューヨークに辿り着いた縁があるという。1960年代の終わりに彼が店主をしているニューヨークの本屋さんで偶然再会する。ピアノは止めていたが、本を愛し、作曲を始めていた。特にウォルト・ホイットマンがお気に入り。1978年4月に彼から手紙を受け取る。そこには彼女のために作曲されたウォルト・ホイットマンの詩による曲と出生証明書が同封され、現在のところ娘は順調、人生で初めての平穏と幸福の中にいる、との言葉が添えられていた。しかし、その10年後、娘が感染症で亡くなったとの連絡が入る。同時に、離婚とチック症が彼を襲う。
カフェでは、ジョーが自由の女神 "la femme puissante" やアメリカ礼賛をするが、すでにカナダ人になっているエリザベートは必ずしも同意しない。西洋、特にアメリカは自らの持つ価値を欺瞞と言ってもよいくらいに裏切っている。資本主義には破壊する力があり、さらには退廃をも生み出すと見ている。1933年3月のことは決して忘れないという。スイスでの2週間の ヴァカンスの後ミュンヘンに帰ってみると、先生の言うことが180度変わっていた。ナチの信奉者になっていたからだ。15歳だったが、われわれの中にある悪を見てしまったのだ。
著者のリーメン氏は、彼女の意見に同意するが、一体何をすべきなのかと問いかける。その問に対して答えがあると言って、ジョーは表紙にこう書かれた楽譜を出した。
これが見せたかったものだと言う。「草の葉」 にあるニューヨーク、自由、民主主義、アメリカ、詩への賛歌をもとに作られている。なぜこのテーマを選んだのかとの著者の問に、精神の高貴さこそ至高の理想だからとジョーは答える。それこそ真の自由の実現を意味するからだと答える。その精神が底になければ民主主義も自由な社会もあり得ない。「草の葉」 は、人生は真、善、美、愛、自由を探究する旅なのだという深い確信に基づいている。そこにこそ、精神を耕すことによって人間的になる術がある。人間の尊厳を体現すること、それが精神の高貴さの意味するところである。
リヴァ―・カフェでのディナーから丁度2ヶ月後の2002年1月6日に ジョーは心筋梗塞で亡くなる。彼は自らの作品を破棄していた。エリザベートは父が言っていた仕事をするために必要になる忍耐と執拗さが彼にはなかったのだと考える。自分の目に適うもの以外はこの世に残しておきたくなかったのではないかと考える。そして、ジョーの遺志を継ぐようにリーメン氏に勧める。音楽はわからない上、ホイットマンも読んだことがないので躊躇すると、彼女は自分のやり方で彼の言う精神の高貴さを求めればよいと伝える。
その僅かひと月後の2002年2月8日、エリザベートが若き日にピアニストになることを夢に見、両親が最後の時を過ごした国で亡くなる。彼は自宅の書斎でゲーテの 「詩と真実」 を手に取り、自国のユダヤ人哲学者スピノザがこの文豪に心の安らぎを呼び起こしていたことを知る。そして、ジョーの言う "la femme puissante" はこの哲学者の娘であること、ジョーの遺志を継ぐのはニューヨークでもドイツでもスイスでもなく、オランダであることを悟ることになる。リーメン氏は、2001年11月7日(水曜日)午後7時半、リバー・カフェでの出会いの意味を噛みしめていたことであろう。
――スピノザについてはこちらから――
24 歳でユダヤ人社会から追放され、その後の人生を真理の探究に費やしたスピノザ。彼は、人生のすべての日常の出来事は虚しく無意味 (vain et futile) であることを知ってしまった。彼の世界は富と名誉と快楽で動いている社会とは相容れないものであった。なぜなら、この社会には真の魂の平安も幸福もないこ と、善き生き方、真理とは何かを探ろうとする精神の運動なくして、永続的な平安も悦びも得られないことを知ったからである。同時に、真理と自由とは分かち 難く結び付いていることも理解していた。異端を嫌悪し、暗愚主義を貫く伝統の力が強い中では、人は自由に考えることができないのだ。時の王子が金と名誉と権力をちらつかせながら大学に誘った時も彼は丁重に、しかし断固として断っている。真の思索には独立が必要で、金や権力はその自由を縛る以外の何ものでもないことを知っていたのだ。自由の真髄とは人間の尊厳以外の何ものでもないことを知っていたのだ。そして、こう書いている。
"Sed omnia praeclara tam difficilia, quam rara sunt."
(Mais tout ce qui est excellent est aussi difficile que rare.)
「しかし、すべての優れたものは、稀であると同時に難しいものである」
(Mais tout ce qui est excellent est aussi difficile que rare.)
「しかし、すべての優れたものは、稀であると同時に難しいものである」
Le salut に至る道は至難の道なのである。これがスピノザがゲーテに教えた真の自由であり、それをこの詩聖は精神の高貴さと名付けたのだ。
ところで、ゲーテの 「詩と真実」 を紐解いている時、この言葉に出会った。
―― 若き日の願いは年老いてのち豊かにみたされる ――
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