dimanche 20 juillet 2008

C.P. スノー 「二つの文化」 を読む


今日は届いたばかりの CP Snow の名著 "The two cultures and a second look" (Cambridge University Press, 1987)の第一部 "The Rede Lecture, 1959" を読む。学生時代に買ったような気もするが、どこか遠くの出来事のように感じていたのか読んだ記憶はない。今回は興味津々で、いつものようにバルコンに出て彼 の言葉を追う。 "The two cultures" の発表は1959年だが、その3年前に雑誌 New Statesman にスケッチを発表している。またこの本のタイトルにもあるように、初版の4年後の1963年に新たな見解を発表している。

著者 Snow は科学のトレーニングをケンブリッジ大学で受け、職業として物書きになったためにこのような視点が得られただけで、同様のキャリアがあれば同じようなことを考えただろうと述懐している。若き日に物理学が花開くのを傍から見ていたことや1939年の寒い朝にケタリング駅で WL Bragg に会ったことも大きな印象を残していて、その後科学から目を離すことはなかったようである。その間、文学と科学(文理:literary vs scientific)の間を行き来するうちに "two cultures" と彼が名づけた現象に気付くようになる。それは大洋を隔てたほどのもの、あるいはそれ以上のものがある。大西洋を渡ればそこでは英語が話されていて話は通じるが、文理の隔たりは行き着いたところでチベット語が話されているようなものだと喩えている。

科学者は未来が骨の髄まで染み付いている(Scientists have the future in their bones)が、文系は本質的に反科学的(anti-scientific)であり、彼らにとって未来は存在しない(The future does not exist)。この傾向は理から文へ移行する過程で、そのニュアンスがわかってくるようである。自らを振り返っても、科学の未来信仰、楽天性は益々明らかになってくるし、文系はむしろ過去にまず目が向かうように感じている。むしろ、そこにしか確実なものはないという哲学があるかに見える。これは科学者個人のレベルでは必ずしもそうではないにせよ、科学という営みを見た場合に否定しようがない。

ここで取り上げられている逸話も興味深い。例えば、話好きのオックスフォード大学の学長がケンブリッジ大学での食事会で会話を楽しんでいる時、その話はさっぱりわからないという声を聞き驚く。そこで助け舟を出したケンブリッジ大学の学長の言葉は、「彼らは数学者ですから」 というもの。また、文系の人が考えている "intellectuals" の中には、Rutherford も Eddington も Dirac も Adrian も入っていないらしいという話を聞いたというエピソードもある。それから、彼の観察によると文理の乖離は特に若い層で大きく、時には敵意にも近いものを感じると書いてある。理の方に勢いがあり、文に比して就職率もよい。当時は物理学が理を代表していたのかもしれないが、それが今は生物学に置き換わっただけで、その本質はほとんど変わっていないかに見える。いや、むしろ程度が激しくなっているかもしれない。文系の人に熱力学の第二法則は?と聞くといやな顔をされるが、同様のことは理系の人にシェークスピアを読んだことはありますかと聞くのと同じことだろう。

このような文理の分離がなぜ問題なのか。それは単に残念なこと(a pity)というだけではなく、もっと酷いものだと彼は考えている。それは二つの異なるもの、異なる原理、異なる文化がぶつかり合うところにしばしば創造の機会が訪れるからだ。しかし、その二つが出会う機会がそもそもないのである。これは双方にとって、われわれにとって大きなものを失っていることになる。この点は自らを振り返っても痛いほどわかる。もし科学哲学における厳密な思考方法について少しでも知っていたら、過去の科学者がどのように問題と対峙していたのかを知っていたら、仕事の進め方があるいは変わったかもしれないという具体的な影響を想像できるからだ。

このような二つの文化の問題はイギリスに限らず西洋すべてに行き渡っているとしているが、東洋でも例外ではないだろう。その意味では人間の頭の働き方の普遍性を示していると言える。半世紀を経ても傾聴に値する声である。しかし、話はそこで終らない。このような国内、あるいはある文化圏の二つの文化の乖離はあくまでもローカルな問題で、それ以上に重要なことがあると考えていることがわかる。それは工業化した国とそうでない国との乖離である。もし西側が非工業国に金銭的、人的な支援をしなければ、共産主義がいずれそこに入っていくことになるという危惧を抱いている。現実的な人は、人間の本性を考えた場合に自らのキャリアを犠牲にしてそのような計画にどれだけの人が参加するのか疑問だと反論するが、それでも引き下がらない。西側に残された時間はないとこの講演を結んでいる。1959年のことである。

過去の東西問題はある程度片付いているが、南北の格差拡大はさらに広がっているかに見える。これから求められるのは、依然存在している文理という二つの文化間の真空地帯に分け入り、そこに外気を入れることだけではなく、世界を取り巻く文化の乖離にも目をやって行かなければならないだろう。途轍もなく大きな21世紀の課題である。





lundi 14 juillet 2008

モンテスキューとともに気候を考える


(18 janvier 1689 - 10 février 1755)


最近、ニーチェの風土と精神に関する以下の文章を仏版ブログに出した。

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栄養の問題と密接に関係しているのは、土地と風土の問題である。誰にしろ、何処に住んでも構わないというものではあるまい。ことに全力を振りしぼることが必要である大きな使命を果たさなければならない者は、この点できわめて狭い選択しか許されていない。風土が新陳代謝に及ぼす影響、新陳代謝を阻害したり促進したりする影響は非常に大きいために、いったん土地と風土の選択を誤ると、自分の使命から遠ざけられてしまうばかりでなく、使命そのものをわが身に授けもらえないということが起こり兼ねないのである。つまり、彼自らが使命に面と向かうことを一度もしないで終ってしまうわけだ。こういう人の場合、動物的 活力が十分に漲り溢れ出していないので、最も霊的な界域に洪水のように押し寄せて行くあの自由、かくかくのことをなし得るのはただ吾れ独りのみ、と認識するあの自由な境地には、到達しがたい。

・・・・・どんなに小さな内臓の弛みでも、それが悪い習慣になってしまえば、一人の天才を凡庸な人 物に、何か「ドイツ的な存在」に変えてしまうには十分である。ドイツの風土にかかったら、強健な内臓、英雄的素質を具えた内臓でさえも、無気力にしてしま うのはいとも簡単だ。新陳代謝のテンポが速いか遅いかは、精神の足がす速く動くか、それとも思うように動かないかに正確に比例している。「精神」そのもの がじつはこの新陳代謝の一種にすぎないのだからこれまた当然である。

ひとつ比べ合わせてみて頂きたい。才気に富んだ人々が住んでいたかま たは現に住んでいる土地、機智と洗練と悪意が一体となって幸福の要素を成していたような土地、天才がほとんど必然的に住みついていたような土地、等々を。 どれもみな空気が素晴らしく乾燥した土地ばかりだ。パリ、プロヴァンス、フィレンツェ、イェルサレム、アテーナイ----これらの地名は何かあることを証 明している。すなわち、天才の成立は乾燥した空気や澄み切った空を条件としていること----迅速な新陳代謝を、いいかえれば法外とさえいえる大量の力を 繰り返しわが身に取り込みうる可能性を条件としていること、それらのことを証明している。

私はある自由な素質を持つ秀でた精神が、たまた ま風土的なものに対する本能的鋭敏さを欠いていたというそれだけの理由で、狭量になり、卑屈になり、ただの専門家になり下がり、気むずかし屋で終ってしまったケースを、目の当たりに見て知っている。そして、私自身にしてからが、病気になったお陰で、否応なく理性へと、現実の中での理性に関する熟慮へと強 いられたのだが、もしもこの、病気によって強制されるということが起こらなかったならば、結局は右と同じケースになっていたのかもしれない。

ニーチェ 「この人を見よ Ecce Homo」 (西尾幹二訳) 
(段落改変をしてあります)

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そうしたところ、モンテスキューに も気候の理論(La théorie des climats)というのがありますよ、というコメントが届いた。モンテスキューと言えば、中学か高校で習った「法の精 神」(De l'Esprit des lois)というキーワードしか残っていないが、それが急に息を吹返してくる。自分の中が何かで洗われるという印象がある。こういう出会いにはいつも岩清 水が湧き出るような悦びが込み上げてくる。

18世紀の啓蒙の時代。理性と科学と人間尊重という新しいパラダイムが生れたこの時代は、ディ ドロとダランベールの百科全書やルソー、ヴォルテールの時代でもあった。モンテスキューは多種多様な法律がそれぞれの国の人びとの思いつきで作られている のではなく、ある法則に則っているのではないかと考え、その法則を説明しようとしたのが「法の精神」となった。その要因として、物理的なもの(風土など)、道徳的なもの(宗教、伝統、風俗く・風習など)を考えていた。ここに出てくるのが、今日のテーマになる気候と法律、政治体制との関連の分析である。

彼は決定論者ではなかったが、気候がそこに住む人の気質や習慣に影響を及ぼすと信じ、そのことを考慮に入れた法による支配が成されなければならないと考えて いた。例えば、気温の影響は大きく、寒い環境の人間は頑強で大胆、知識も多く快楽を求める傾向が少ないが、暑い国の人間はだらしなく臆病で決断力がなく、 情熱的で快楽に溺れやすい。前者は王政を持ち、後者は専制を好む傾向がある。

また、土壌の豊かさも政治形態に影響を及ぼすと考えていた。王政は土地の肥沃なところに多く、共和制は土地の痩せたところによく見られたが、モンテスキューはその理由として以下の三つをあげている。第一に、肥沃な土地の人間は現状に満足しているため、自由を求めるよりはむしろ安全を求めること。第二に、肥沃な国は常に平坦な土地の上にあり、人民はより強い力に抗う ことはできない。征服しやすいし、一旦屈服してしまうと彼らの精神に自由は戻ってこない。モンテスキューは王政は共和制よりも征服戦争をする可能性がある と考えていた。第三には、痩せた土地の人は生きるために必死に働かなければならず、勤勉で真面目、勇敢で辛苦に慣れており、戦争に適している。したがって、彼らは自らの防衛に長け、侵略者から自由を守ることができるとしている。痩せた土地が彼らにこのような特質を与えていることになる。

モンテスキューはアジアや日本の状況についても言及している。アジアになぜ専制が多いのか、そこにはヨーロッパと異なる2つの理由がある。第一に、アジアには緩衝になる地域がない。そのため、北の寒冷地帯がヨーロッパよりも南に達していて、その移行が急激ですぐに熱帯に入ってしまう。従って、勇敢で活力溢れ る者が怠惰で女々しく臆病な者たちを直ちに制圧してしまうのだ。これに対してヨーロッパでは、北から南に向けて徐々に気候が変わるため、強い国と強い国が 対峙して存在している。第二の理由として、アジアはヨーロッパに比して平野が広いことがあげられる。山岳地帯が離れ、川も侵略の障害にはならない。ヨー ロッパには小国が乱立しているので一国がすべてを制服することは難しい。アジアでは巨大な帝国が生まれ、そこは専制の温床になりやすいのである。

モンテスキューの解析がどの程度的を射ているのかはわからないが、気候、風土や地理的条件がわれわれの政治行動や考え方に影響を及ぼしているという点には同 意できそうな気もする。決定論に立つわけではないが、それほどまでに大きな要素である印象を拭えない。日本の若者を世界の同年代の人と比べて際立って見え るのは、ヨーロッパはいうに及ばず例えば中国、インドの若者を比べた時でさえ世界の中の自分、日本を世界の中で相対化する視点が非常に希薄なことである。 ある意味では自分の若い時とも重なるような気もするが、自由とか社会体制とか国家という視点の中で自らを見るところもないように見えて仕方がない。

私の場合には、まず自分のことをうまく説明できないという症状で現れたが、時代を経ればこのようなことはなくなるのではないかと思っていた。しかし、どうも そうではなかったらしい。まともな教育が成されていると仮定した場合、教育だけではこれらの条件を乗り越るところまで行かないのかもしれない。自然がわれ われに課している目に見えない影響はそれほどまでに大きいのかもしれない。日本の世界における存在感が国内でしばしば問題にされるが、日本という家の中に 入ってしまえばそんなこと(外とか他ということ)はどこ吹く風と言わんばかりである。日本は肥沃な土地なのだろうか。再び外に出て遠くから眺める機会を得 た今、そう感じることが益々増えている。もちろん決定論には組したくないのだが、この問題はほぼ絶望的な眺めにさえ見えてしまうのである。


ところで、今回のような出会いでいつも感じるのは、モンテスキューの考えはずーっと前からそこに転がっていたということ、それは当然のことながら専門家にとってはいわば当たり前のこと、知らなかったのはそれを取り上げている自分だけということだ。この世は自分の知らないことで溢れているということに改めて目を見張る。われわれはその膨大な宝の山から自らに飛び込んでくる何か拾い上げている存在だろう。言ってみれば、人間はその組み合わせの違いによって特徴付けられている存在であり、どの組み合わせを取っても同じものはないと推測される。この厳粛な事実が身に沁みると、人と会うということがどれだけ貴重な経験なのかがわかってくる。




dimanche 13 juillet 2008

"Never Retire" by William Safire



数日前に読んだ資料の中で、私にとっては懐かしいこの方に思わぬ形で再会した。

William Safire (born December 17, 1929)

私のニューヨーク時代、ニューヨーク・タイムズ(NYT)で彼のコラムを読み、そこから本になった "On Language" にもよくお世話になった。安定した感じの人という印象。私が若い時のNYTの記者と言えば、ジェームズ・レストンが記憶に残っているが、今では彼がそのようなNYTを象徴するような立派な、しかし親しみのある記者になっているのかもしれない。

今回彼が再び浮き上がってきたのは、"neuroethics" という言葉の生みの親ということにされていることを読んだからだ。いつから倫理などに興味が湧いていたのか知らないが、出版された大統領生命倫理評議会報 告書に序文まで書いている。(日本語訳:「治療を超えて : バイオテクノロジーと幸福の追求 : 大統領生命倫理評議会報告書 」)。2005年にはNYTを辞め、今はニューヨークに居を構える神経科学を中心にした科学、健康、教育をサポートするDana Foundationの理事長として活躍している。現在78歳。以下のビデオでもわかるように、まだまだ元気である。アメリカの学者も精神が活発に動いている様子が伝わってきて気持ちがよい。

"Science, Ethics and the Law"

これから今日のタイトルになったお話になる。この言葉は彼がNYTを辞める時(2005年1月24日)のコラムのタイトルである(原文はこちらです)。そこには、最後までしっかりと生きるためにはどうしたらよいのかという彼の考えが独特のユーモアを交えながら綴られていて元気になる。3年以上も前のものなのですでに読まれている方もいるとは思うが、簡単に紹介したい。

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数年前に、DNAの構造の発見者であるジェームズ・ワトソンが私にこう言った。

"Never retire. Your brain needs exercise or it will atrophy"
 (決して辞めるな。脳はトレーニングが必要、そうしないと萎縮するぞ)

現在75歳で至って健康。誰も辞めろとは言わないし、最近書いた記事には32年間で最高の反応があった。それなのになぜ辞めるのか。

50年前にインタビューした晩年のブルース・バートンがいつも新しいことにチャレンジすることが大切と言ったことに対して、私がこうまとめた。それ以来、彼の言葉として使っている。

"When you're through changing, you're through."
 (変わることを止める時、人生は終わるのだ)

この二つのアドバイスをまとめると、次のようになるだろう。

"Never retire, but plan to change your career to keep your synapses snapping"
 (決して辞めるな。そして、シナプスが活発に活動し続けるようにキャリアを変える工夫をしなさい)

この一世紀で寿命は30年も延びた。すでに聖書にある70歳という限界も優に超えている。脳がおかしくなっているのに体だけこの世に留まっていても自分だけでなく社会の負担になるだろう。寿命が延びて意味があるのは、精神の命が保たれている場合である。

Dana 財団では neuroethics のフォーラムを開いて、討論する機会を作っている。そこで問題になるのは次のようなことだ。

● 脳の病気を治療するばかりではなく、その機能を高めようとするのは正しいか?
● 成長ホルモンで身長を調節すべきか?
● クローンは道徳的に正しいか?
● 薬で幸福感を得るのは真の幸福を蝕むか?
● 早期に芸術に触れると数学、建築、歴史などに対する認識過程に影響があるか?

最後の問に対しては、新しいイメージングの研究により肯定的な答えが出ており、学校における芸術教育の予算にも影響を与えるまでになっている。

人 生の最後に必要なのは、新鮮な刺激を保つこと。そのためにはキャリアの早い時期からリラックスするための余技(avocation)を始めること。それが 精神を働かせることになる最終ステージでの仕事(vocation)に必要となるのだ。仕事(job)を辞めて精神的な危機に陥らないためにも。爽快な二 度目の風を捉えるためにも。

"When you're through changing, learning, working to stay involved -- only then are you through. Never retire."
 (変わること、学ぶこと、関わり続けようとすることを止めた時、その時こそ君の人生は終るのだ。決して辞めるな)


vendredi 11 juillet 2008

医の言葉を考える

Prof. Denton Cooley (born August 22, 1920)


七夕の日の午前中、定期検診へ向かう。ランデブーの時間に少し遅れたが、フランスではそれほど問題にはならない。検査結果を持参して診断を聞き、その後にい つものように別室に移り視診、聴打診、体重・血圧測定、さらに今日は指先から血液を採り血糖値を計っていた。それが終った後、いつも雑談に入るのだが、今回もその時間があった。前回、私の方からフランスの哲学者について話したらしく(思い出さないのだが)、大学の話になる。そこからメモワールとして医学の歴史において病気がどのように見られてきたのか、患者と医者の関係はどのように変化してきたのか、、、などについてまとめようとしているという話をする。 それに対して、医学についてそのような側面から哲学するのは素晴らしいですね、という反応(前回は、フランスで哲学を勉強するなんて素晴らしいですね、という言葉をいただいた)。さらにフランスでもその辺はいろいろと研究されているようですが、医者と患者との関係についてはモリエールがすべてを語ってくれていますね、と付け加えていた。上から諭すような話し振りではなく、自らがそう感じ取っていることを話すというスタンスを感じ、患者と医者が同じ平面にいることを意識させられる。それだけで大きな勇気を与えられるように感じる。最後はいつもの握手と「ボン・ヴァカンス」という言葉で送り出してくれた。来る前はよもやモリエールの話が出るなどとは考えてもいなかったので、妙に嬉しくなっていた。私は特に病気ではないのだが、こういう時間こそ患者にとって癒しを与えてくれるものになるのではないだろうか。

私は医者の言葉のみならず、言葉を超えた何気ない仕草などを含めた、言ってみれば存在そのものが癒しの力を持っており、そのことが今忘れられているのではないかと思っている。これが改善されるだけで、医療に対する不満や不信のかなりの部分が解決されるような予感さえしている。そういうこともあり、こちらに来る前から病院での経験を注意深く観察するようになっている。こちらに来てからも病院だけではなく検査をするラボラトワールでの様子とそこで起こる自らの中の変化に目をやるようにしている。今回のLH医師との会話を思い出しながら、本来医学の中心の置かれなければならないこの問題について考えていた。

ドイツの哲学者ガダマーも医者の言葉が持つ癒しの重要性を考察している。患者になった方であればわかるだろうが、患者というものは医者と出会った瞬間から最後に別れる時まで全身の 神経を医者の言葉に集中している存在である。それだけの集中力で人の話を聞くことはないだろうというくらいにである。そこで吐かれる言葉の力はいくら医者の権威が地に落ちたとは言え、無視できないものが残っているだろう。医学の基本の基本にあるべきはずこのことが忘れられているのではないかと感じる場面にこれまで幾度も遭ってきた。この事実に医の側(医者を含め医療に携わるすべての人)は真剣に目を向けるべきではないだろうか。医療に身を置く人は、単に医学の科学的・技術的側面だけに身を捧げるテクニシャンを目指すのではなく、そこを超えて人間を理解したいという熱い意志(passion)を持っていなけ ればならないだろう。

アメリカの心臓外科医デントン・クーリー博士は「健康と病気の概念」という本の巻頭言で医学の現状を考察している。その文章には単に言葉として語っているのではない、これまでの経験から滲み出た深い思索の跡が見られる。

「医科学の中心をなす概念について哲学的に考え抜いて得られた知識や経験がない限り、より良い結論や政策には辿り着けないだろう」

「医 学教育に携わる者が現代社会における医師に求めるのは、純粋科学以外の領域に触れること、それはまさに哲学教育に匹敵する広い人間教育である。歴史、哲 学、倫理などに精通した医師こそ人間を取り巻く種々の問題について判断を下す資格を持つだろう。これからの医師は単なる医学や科学の徒であるだけではなく、教養と智慧を備えた学徒でなければならない」

これは1981年に出版された本での発言である。当時の状況は今と変わらないどころか、 彼の言葉が益々重みを持ってきている状況にあるというのが私の印象である。この言葉を医の側が聞き流しているうちは何も動かないだろう。しかし、これを真に受け止めることができた時、そこに関わるすべての人が新たな方向に向けて動き出さざるを得ないだろう。それくらい大きな問題である。これは余りにも大きな問題なので、今日はその存在を指摘するだけで終わりにしたい。





mardi 8 juillet 2008

絶対的に生きる


変な日本語である

正確には、絶対的なものとともに生きること

あるいは、絶対的なものに向かって生きることになるだろうか

絶対的なものとは何だろうか

それを掴むのは難しそうだ

今のところ、この世の謂わば相対的な価値に囚われることなく、という否定的な記述に留めておきたい

これができれば、素晴らしいだろう

そうすれば、死ぬ前に死ぬことにはならず、本当に生きたことになるだろう

それを支え動かすのが、自らの内なる声、わたしが「内なるモーター」と言うところのものになる

 その存在の重要性に気付いたのは、実はかなり前である

わたしがアメリカに滞在した5-6年目くらいだったので、もう四半世紀前のことになる

その精神状態が今、具体的に顔を出しているような気がする





lundi 7 juillet 2008

その瞬間にやってしまう



新しい人に触れた時、一つの言葉が思索を刺激することがある

それを逃さずに控え、それを纏め、広げる作業をその時にやっておくこと

その瞬間を逃すと、どこかに行ってしまう





dimanche 6 juillet 2008

アスクレピオス学派の哲学

Statue of Asclepius 
exhibited in the Museum of Epidaurus Theatre


坂本百代氏の分析によれば、「医学の神」とされるアスクレピオスの医療にはつぎのような特徴がある

この学派は死を忌み嫌い、死を寄せ付ず、重病人は入院させなかった

同時に、出生も医療の対象とはしなかった

つまり、生と死を除外した人生の中間の時期を対象としていた

そして、生を楽しみ、文化的に充実することを医療の目的としていた


 そこには劇場や図書館があり、病院が学問の府の様相を呈していたという


 アスクレピオスはアポロンの息子で、死者を蘇らせたとしてゼウスにより雷に打たれ殺される

 死後、ゼウスはアスクレピオスを蛇遣い座の中に置いたとされている

上の写真にあるように、アスクレピオスはシンボルになっている蛇が絡まった杖を持っている

それはそのまま医学の象徴にもなっている





samedi 5 juillet 2008

治癒者に必要なもの


「治癒」に関わる重要な要素として、患者と医者の間で交わされる会話がある。医者が治癒者という立場を維持しようとする時、最初の接触から最後に至るすべての過程でどのような言葉を使うのかが問われる。言葉には治癒を決める力があることを忘れてはならない。

ここでの大きな問題として、そもそも「会話とは何か」という問いが浮かび上がるが、これからの問いとして控えておきたい。

これまでの患者として、あるいは患者の家族として医者の言葉には注意を払ってきた。患者の側は医者の言葉にどれだけ多くの影響を受けているのかを体で感じて きた。この事実に医療の側が充分な配慮をしていないと思われる場面にも遭遇している。現在の状況はよく分からないが、この視点からの教育はどの程度されて いるのだろうか。

治療の英語 therapy の語源は古代ギリシャ語のθεραπεία(therapeía)で、奉仕(service)の意味が含まれている。その意味では、科学としての医学を施すだけでは不充分で、患者への敬意を払いながら人間への実践の技術(ars)がどうしても求められる。科学を施せば十分であるという姿勢が広まる中、真の治癒者になる上では忘れてはならない点だろう。




jeudi 3 juillet 2008

病とどう向き合うのか?


この問いにどう答えるのか。大前提として、われわれは死すべき存在であるという認識に達することができるかどうかという問題がある。さらに、この生には病が 付いて回ること、われわれは病とともにあることを前提とできるかどうかに掛かってくるだろう。健康の時にはなかなか難しいことだが、これができると新しい 道に入ることができるのではないだろうか。

われわれが無意識のうちに持っている健康こそ第一で、病は退けるべきもの という考えを見直すことができるかどうか。病に罹ると社会との断絶が起こり、それまで考えていた人生からの脱落のように感じることは想像に難くない。それ も病についての考えを改め難い一つの要因だろう。

しかし、人生をもっと大きく捉え直した場合はどうだろうか。例え ば、このような自問はできないだろうか。社会の中での仕事をしている時には、この自分という存在のどれだけの部分を使っていただろうか。病を得ることによ り、全存在の中でそれまで使われていなかった部分が活力を持ってくることはないだろうか。それは、この存在を新しく生かすことに繋がっているのではないか。