president of AAAS
director of the Malaria Research Institute at Johns Hopkins University
2003 Nobel Prize in Chemistry
(February 18, 2010)
director of the Malaria Research Institute at Johns Hopkins University
2003 Nobel Prize in Chemistry
(February 18, 2010)
初日の夜は、ピーター・アグレさんの会長講演があった。始まる前に会場の様子を見ていたが、先日も触れたように人 間が生き生きしている。礼儀はもちろんあるが、その前に人間があるという印象である。講演では自らの人生と研究を振り返りながら、終始社会に貢献しようとしている姿が浮かび上がってきた。いくつか興味を惹いたことがあったので記しておきたい。
彼の先祖はノルウェイからの移民で、父親は化学の学者だった。研究室に顔を出しているうちに父親が最初のヒーローになった。それからノーベル賞を2度もらっている(化学賞と平和賞)ライナス・ポーリングとその一生をアフリカはランバレネの医療に捧げたアルベルト・シュヴァイツァーを人生のヒーローにあげていた。アグレさん自身もジョンス・ホプキンスで医学教育を受けているが、シュヴァイツァー博士に関しては、内に秘めた情熱とそれを実行に移す生き方に惹かれたようだ。
ポーリングに関しては化学者として尊敬しているのはもちろんだが、それと同じかそれ以上に平和賞のもとになった社会活動に身を捧げる科学者としてのポーリングに敬意を払っている様子が伝わってきた。例えば、イスラム圏のアメリカに対する感情はほぼ完全にネガティブだが、アメリカの科学に対しては必ずしもそうではないというデータから、人類の福祉のために政治家にはできないが科学者にはできることがあるのではないかと指摘していた。彼自身の歩みを振り返ると、その考えを実践していることがわかる。
彼が関わった有名な事件として、2004年、リビアの子供をHIV感染させたとしてブルガリア人看護師とパレスチナ人医師に銃殺刑が宣告された一件がある。この時、カダフィは名誉ある撤退を模索して米国科学者のチャネルに接触してきて、彼もそこに関わったという。その他にも数件、人権の擁護に関わる事件に関与している。科学者が人助けをできることは、単純に "feel good" であると淡々と語っていた。それからキューバや北朝鮮など、科学者の意志は高いが、孤立していて実質的に進めることが難しい国との協力関係を築こうとしている。
彼のノーベル賞に繋がった分子がマラリアの治療の標的分子になり得る可能性を示した時、初めての話を聞くことになった。ポーリングがマラリア多発地帯に見られる赤血球が変形する鎌状赤血球症の原因は、ヘモグロビンという分子の異常によることを1949年に明らかにした。これは病気が分子の異常によって起こることを示した初めての報告になり、分子遺伝学、分子医学という領域が発展する契機にもなった重要な研究である。私が初めて知ったのは、その研究が Harvey Itano という "Nisei" によって行われたこと、しかも彼が "Nisei" であったため、カリフォルニア大学バークレー校を優秀な成績で卒業したにもかかわらず、直ちに収容所に送られたことであった。アグレさんは Itano 氏の立場にシンパシーを示しながら、その時の写真とともに彼は今は退官してサンディエゴに住んでいることを紹介していた。彼の世界の見方の一端を知らされた瞬間であった。これは余談だが、こちらに来る前のシャルル・ド・ゴールでマラリアのポスターを見ていたので、この話を聞いた時に、あれっと思っていた。
彼がノーベル賞受賞の知らせを受けた2003年の朝、母親に連絡した時のこと。彼の妻に母親が、あまり頭でっかちにならないようにさせてくださいと言ったという。その意味について、具体的に人の役に立つことをすることが大切だと彼女は考えているのだと解説していた。彼の歩みの根っこには、彼の母親の哲学が生きているのかもしれない。
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