dimanche 21 mars 2010

これからは哲学・観想が求められる時代



« Tant de mains pour transformer ce monde et si peu de regards pour le contempler ! »
 
Julien Gracq, Lettrines (1967)

「この世界を変容するために多くの手が煩わされているが、そのことを観想するための眼差しの何と少ないことか!」 
(ジュリアン・グラック 「花文字」、1967年)


エジプト出身で半世紀以上パリのアパルトマンで暮らし、2008年にパリで没した小説家アルベール・コスリさんのインタビュー Conversation avec Albert Cossery (Editeur : Joëlle Losfeld, 1995) の冒頭を読んでいる時、上の言葉に出会った。これを見た瞬間、私が哲学に入った時の心象風景を思い出し、暫し思索に浸っていた。

この言葉は現代の状況が抱える大きな問題を的確に指摘しているように見える。端的に言うと、それは哲学の欠如に行き着く。現代社会を動かしているもののひとつに科学がある。それは科学に内在するモーター、すなわち科学者の興味や技術的に可能となるフロンティアに向かって突き進む特質を持っている。そこには価値判断は入らず、科学の自律性に則って動き続ける傾向がある。そのため社会の役に立つもの、利便性を満たすものという短期的な視点から選ばれる目的のために科学が技術として使われ、社会は否応なく変容させられることになる。このような科学の持つ特質ゆえに求められる営み、すなわち科学の意味や科学の進むべき方向、その帰結についての思索、観想、議論をしようとする空気があまりにも希薄なのである。

この問題を解決するには、どのような方法が望ましいのだろうか。まず、科学を取り巻く問題について思索することを広く科学者に求めるのは、彼らを取り巻く状況を考えると少々酷に見える。それほどまでに科学者の生存は厳しいものになっている。それでは誰がその役を担わなければならないのだろうか。すぐに頭に浮かぶのは、この問題を専門にしている科学哲学者だろう。哲学なしに十分に科学ができると考えている科学者が科学哲学者と接触することは、これまではほとんど皆無であった。しかし、まだ数年の経験ではあるが、科学哲学で扱われる問題は科学者にとっても貴重なものを齎すと確信するに至った現在、この状況は変えるべきものとして映っている。これからは科学者が異分野に心を開くと同時に、科学哲学者の側も自らの枠を出て科学と直接交わることが求められるだろう。ここで気になるのは、科学哲学者の数、特に科学の内容に精通した哲学者の数である。形而上学的な視点からの考察を専門にする哲学者の場合、科学を熟知している場合に陥るかもしれない科学に偏った判断を避けることに繋がることもあるだろうが、その逆の可能性もある。

第二の候補として、科学者の中で科学を上から見ながら哲学的に科学を捉え直したいと考えている人たちが考えられる。このような志向の科学者はこれから益々貴重になるだろう。私の短い経験によると、少し時間はかかるかもしれないが、ある程度の基礎的な教育を受けた方が得られるものが大である。その意味でも、理系教育(大学、大学院)における科学哲学教育、あるいはすでに科学者になっている人たちにも開かれた教育システムが必要になるだろう。ここから生まれる人材も含め、科学者や哲学者などが領域を超えて科学の世界に働き掛けることによってしか現状に変化を齎す方法はなさそうに見える。

このような新たな観想の視点は、科学の営みの中で蓄積されてきた生のデータがどれだけわれわれの知に反映、還元されているのかという大きな疑問に向き合う時にも大切になる。科学の将来について考えているシドニー・ブレナー博士の次の言葉にもその問題意識が表れている。

"The first thing we have to consider is how to convert the vast amount of information that we are accumulating into knowledge." 

(An interview with... Sydney Brenner.
Nat Rev Mol Cell Biol 9: 8-9, 2008)

「まず第一に考えなければならないのは、 われわれが蓄積している膨大な情報を如何にして知識に変換するかということである」


この問題解決には、科学のデータを読むことができる科学者が乗り出さなければならないだろう。科学が社会から隔絶され、目に見える技術的な進歩が出た時にだけ注目される今の状況を考えると、科学と社会を結ぶ定常的な関係構築が必要になる。その意味でも、科学の営みからどのような知が生まれ、その知によりわれわれの存在にどのような新しい光が当たっているのかを明らかにし、科学を超えた言葉で社会に向けて広く説明することが大切になる。その努力を怠っていると、最終的に科学自身の首を絞めることに繋がるだろう。ただ、ブレナー博士も指摘しているように、データを集めるためのグラントはあるが、データをまとめ、比較し、それらの繋がりから何らかの意味を理解するためのグラントはない。したがって、この仕事で自立することは非常に難しくなる。本気でこの問題を扱おうとする場合、お金をどのように配分するのかという基本的なところに還らざるを得なくなる。

私自身が科学から哲学に移ってきた背景には、これらの問題意識と通低するものがあった。哲学の中だけで活動するのではなく、哲学的視点を用いて科学を広く考え、科学の現場と接触することを視野に入れている。哲学がこれまでに培ってきた膨大な成果を取り入れながら科学の問題を考え、観想していくという息の長い歩みになる。このような営みには、単に科学の身を守るという効果だけではなく、科学自体が豊かになる可能性が秘められていると確信しているからでもある。

さらに視野を広げると、同様の問題は科学や医学に限らず、政治、経済をはじめとする社会のあらゆる局面で見られるはずである。これらの問題に対処するためにも、対象を広く捉えて観想する姿勢の重要性を説く哲学に目を向けることが不可欠になると考えている。


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