jeudi 13 janvier 2011

アンリ・アトラン著 「試験管の中の哲学」に見る科学と神話 " La philosophie dans l'éprouvette " de Henri Atlan


La philosophie dans l'éprouvette

de Henri Atlan (né le 27 décembre 1931 en Algérie)


今日手に取ったのは、昨年10月に出てすぐに手に入れたアンリ・アトランさん(79歳)の「試験管の中の哲学」という対談本。その第一章「神話、過去と未来: タルムードからポストヒューマンへ」をゆっくり読む。生物学・医学だけではなく哲学もやってきた方なので、参考になるところが多い。アトランさんのご意見を拝聴したい。

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まず、生物学者であり、哲学者でもあることについて、それは可能であるし、時に望ましいことでさえある。人によっては哲学をやってから科学に入ったり、逆に科学から哲学に入る場合があるが、私の場合は科学と哲学を同時並行で続けてきた。高校の終わり頃からヘブライ語を始め、伝統的な文章を読むうちに自らの実存に関わる問題を考えるようになった。そこからプラトン、カント、ニーチェ、ベルグソンや現代の哲学者を読むようになり、哲学史において特別の位置を占めるスピノザに出会った。そして、長い時間の後、問の性質と解の性質との間にある違いに気付いた。それは、問が哲学的で理性に訴えるのに対し、解の方はしばしば神話に向かうということである。

高校時代から生物学に興味を持っていたので、医学を学ぶのは自然の流れであった。ただ、医学校が終わって気付いたことは、その知識が如何にも表面的だということ。そこで、物理学、生物学、さらに生物物理学を学ぶことにした。医学部で生物物理学教授をしていた最後の方では、幸いなことに実験研究をやりながら社会科学高等研究院EHESS)で哲学研究の指導を依頼された。

新しい人類、あるいはポストヒューマンの時代を向かえていると言われるが、人類の誕生以来、人類は人類で変わらない。もちろん、これからテロや中近東の紛争に触発された核爆発はあるかもしれないし、進化はするだろう。しかし、私が興味を持っているのは、20世紀という僅か100年で起こった人間の状態の変化である。それは二つしかない。一つは洗濯機で、もう一つは避妊薬。これが人類の半分を占める女性の人生を完全に変え、その結果男性も変わったのである。それでも問題になるのは、同じ人類の問題。100年前の戦争の時代の勇気、連帯、祖国愛などは、今は別の領域で発揮されるようになっている。古代の哲学者を調べても現代に通じる問題が扱われている。そこに古典を学ぶ意味がある。

人間は気候変動、汚染、戦争などの自らの未来に関わる問題について決断をしなければならないと言われる。しかし、ここで言う人間とは一体誰のことになるのか。一人の孤立した個人にはその選択の余地はない。抽象的な人間という概念は歴史的に作られたもので、ミシェル・フーコーが言うように、砂浜の絵が波に洗われるように消えてゆくだろう。

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途中から80年代にコルドバで開かれた現代科学と古代の伝統に関する会議の話に変わり、科学と神話の関係が問題になってくる。その話が面白い。

会に参加した一流の科学者の大部分にとっての唯一の理性は科学的理性で、他のすべては寓話であり妄想であるという状況の中で、量子物理学者の何人かは、科学の理性が変わり、奇跡的に古代の伝統と統合されるという考えに共感していたという。アトランさんは、理性は一つだけではなく、神話の中でも他の理性が存在するが、両者を混同しないこと、科学や神話だけですべてを説明できると考えないことが重要だと考えている。

古代ギリシャの哲学者が神話を用いていたように、中世のユダヤの哲学者も聖書や神話のテキストに当たっていた。ここで言う神話を非理性的と理解しないこと。そして、神話には一つの世界の見方が潜んでいて、それは科学とは全く異なるが、科学を補完する理性とも言えるものでもある。現代医学や生物学が生み出した問題、例えば生命倫理などは医学では解決できず、哲学や人文科学、さらに古代の伝統に委ねられる。彼の場合には、これまで研究してきたタルムード(特に、その法的部分)がこれらの問題を考える上で有用であるという。

聖書やタルムード、ミドラーシュカバラ(la kabbale)の解釈の方法に興味を持ち、最も深い意味に到達するには、文字、単語、文字や単語の数的意味、単語の意味の変化などを研究する必要があることを学ぶ。それは「神の言葉」だと間違って言われている聖書を無神論者の書、すなわち著者がいない書として読まなければならないことを悟ることになる。聖書を「神の言葉」として読むことは、ある意味では冒涜に当たると彼は考えている。

また、宗教的かどうかを聞かれ、信仰が神秘的な経験によるものだとすれば、宗教的ではないと答えている。彼の場合には、ユダヤの伝統との繋がりを古代の哲学者の日常の中に見出しているようである。哲学とはできる限り厳密に考えることであるが、知に開かれていること、そして実行に移すこと、すなわち自分の考えを日常生活の中で形あるものにすることでもある。アトランさんの場合には、その過程で伝統的な書の研究や解釈が霊感を与えているようだ。


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