vendredi 6 mars 2009

科学史家ジョージ・サートン対医学史家ヘンリー・シゲリスト George Sarton vs Henry Sigerist (II)

昨日紹介した科学史家ジョージ・サートンと医学史家ヘンリー・シゲリストのお二人による対論を聞いてみたい。まずジョージ・サートン氏の主張から。

George Sarton: The history of science versus the history of medicine. Isis 23: 313-320, 1935

論文のタイトルで対立的に捉えられているように、科学史家の立場から医学史の領域を見ると、多くの人が参加していて栄えているので羨望の眼差しが一貫している。要約すると次のようになる。

歴史家としてのトレーニングを受けていない医家が仕事の合間を縫って書くことが多いので、その質は必ずしも高いものとは言えない。歴史の研究には資料もさることながら、その解析の鋭さや多面性が求められ、素人の能力を超えるものがある。医学史の場合、資料と研究者が揃った研究所がライプチッヒ大学、ジョンズ・ホプキンス大学にある。ヘンリー・シゲリスト博士はライプチッヒ大学からジョンズ・ホプキンス大学に移っている。

しかし、このような現象は医学と対極にある数学では見られない。ハイデルベルグ大学から始まった Moritz Cantor (1829-1920) の研究成果はすばらしいものがあり医学史とは比較にならないのだが、未だ数学史の研究所はできていない。数学に関する図書館はストックホルム、ニューヨーク、ロードアイランド州プロヴィデンスにあるが、体系的には利用されていない。

医学史との状況の違いをどのように説明すればよいのだろうか。それは簡単で、一般的に科学史の人気は低いが、その中で医学史の人気が相対的に高いということである。普通の人に科学や数学の重要性を理解してもらうのは大変だが、医学の場合にはその必要がない。この状態を恨めしく思うよりは祝福したいのだが、科学史のなかで医学史が最良の部分であると医者でない者に言うのは見逃すことができない。

16世紀までは知識人は医者か、神学者、法学者であった。生活があるので科学に興味のある者はまず医者になり、自然科学を研究する傾向が19世紀まで続いた。純粋な科学者が出るようになってからの歴史は短いのだ。したがって、昔の科学者は種々の分野で業績を上げているが、医学史家は医学に関係のない領域については触れないか、医学的に重要なところしか触れない傾向があり、多面的なアプローチがされていない。それでは医学史とは言えない。

科学史の中心は医学史ではなく、数学史でなければならない。宇宙の基本的な説明は数学的にならざるを得ないし、数学以外では難しいだろう。ただ、数学史に焦点を合わせた科学史は医学史に比して人気がない。医学が人間に絡むのに対して、数学は非人間的で冷たく見える。しかし、全体の真実を掴もうとした時には科学史が深いものを提供する。数学は人間の思考の最も中心にあるものである。無限についての知識は数学に負っている。しかし、医学史家は数学に対して、副産物と言ってもよい応用可能な面でだけしか取り上げない。

医家は人間の病気や精神について知っており、時にその治療までできるが、人間についての本質的なことは理解していない。それは数学者や数理物理学者に委ねられているのである。ただ、もっとも興味深い研究は、数学史だけではなく科学史、および科学史に焦点を合わせた人類の歴史によって成されている。そして、科学哲学なくして歴史的視点も得られないばかりか、視点そのものが得られないことになる。それでは表面的で、不完全で、独善に満ちた結論にしか辿り着かないのである。

医学史の重要性はわかるが、それが科学史であるかのように考えているのは錯覚である。その認識はハムレットがいないハムレットの芝居のように不完全で間違っている。幸いなことに、多くの医家や医学史家もそれがわかってきて、そのような常識外れのことは言わなくなっている。彼らの中には歴史や科学史に興味を持ち、科学史協会の会員になり Isis を読み、さらには投稿する人まで増えている。今や科学史も医学史のように認知され、支援される時が近い。




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