samedi 29 janvier 2011

江戸の普遍人、平田篤胤




平田篤胤
(1776年10月6日-1843年11月2日)


先日、荒俣宏さんと平田篤胤の末裔で篤胤神道宗家の米田(まいた)勝安さんの対談本に目を通す。

 「よみがえるカリスマ平田篤胤」(2000年、論創社)

平田篤胤は荷田春満、賀茂真淵、本居宣長に連なる国学の四大人に数えられ、戦後は狂信的な国粋主義者として批判された人物。ただ、米田さんは篤胤を国学だけで評価するのは不当であり、その幅広い仕事を常人の守備範囲で理解するのは至難の業だと語っている。確かに、神道・国学に始まり、古伝、神代文字、文学、民俗学、宗教(仏教、儒教、道教、キリスト教、神仙道)、暦学、地理学、医学、蘭学、窮理(物理)学、兵学、易学などについて膨大な書物を残している。科学を学んだ上での文系の学問だったことが特徴になるだろう。彼の最終的な夢は、歪んだ江戸末期の世を改めること。そのためには、権力を倒せ!という政治運動に恃むのではなく、人々の考え方を変えるように教化するのが有効であると捉えていた。具体的には、日本の言葉、神についての考え方、暦、度量衡、そして科学を正すことであった。

子供の時から本を読むのが好きで、書き抜きもしていた。20歳の時、再び帰る道を断ち、秋田を出て江戸に向かう。この途中に猛烈な吹雪に遭い、宗教体験をした。米田さんによると、宗教への入口にはいくつかあるという。

まず、学問(哲学、倫理学、心理学、法学、天文学など)の方法論を通して教学を習得する学習的信仰。
第二に、論理の積み重ねではなく、個人的な神秘体験を通して信仰に至る体験的信仰。
第三に、自然現象から人間の力の及ばぬ世界を感性鋭く自覚して信仰に至る感性的信仰。
第四に、葬儀、お宮参り、初詣などの日常の慣習の中で信仰に至る慣習的信仰、など。

江戸に出て苦労した後、25歳の時に平田家の養子になり、篤胤を名乗る。以後学者の人生を歩むことになる。26歳の時に本居宣長の書に触れ、伊勢に出向き、宣長に入門する。同年、妻綾瀬を娶る。その翌年に長男が生まれるもすぐに亡くなる。32歳で元瑞を名乗り、医者を開業。篤胤37歳の時、31歳の妻が亡くなり悲嘆憔悴する。その経験が「霊能真柱」を書かせる。人間精神を確固にする根本は死後の霊魂の行方を明らかにすること。地獄極楽や天上黄泉の国に行くのではなく、天照大神の指示により大国主神が支配する霊界に行くとしている。そして、その霊界は地上にあり、霊魂はそこで永久に生きるのである。


篤胤は、学問というものは自分一代で完成できるものだけをやるのではなく、数百年、数千年と継承されて行くもので、未完の部分は後の学者に委ねればよいと考えていた。いろいろなものに興味を持ち過ぎて、手が及ばなくなったという批判は当たらないとは米田さんの指摘。篤胤の学問をまとめると、次のようになるだろう。

第一に、東洋医学、西洋医学を研究し、人体解剖までやり、人間とは何かという問に科学的に答えようとした。
第二に、天文・地理・暦学を研究し、時間・空間という基本概念を明らかにしようとした。
第三に、科学的研究ではわからない心、智慧、生前・死後、文化の発祥や未来、さらに人間の力の及ばない超常現象、幽冥、超能力などを解明しようとした。

この3つの柱は、科学、哲学、宗教と対応しているようにも見える。彼はあくまでも根本的な問題に興味を持っており、その方法論の基礎には合理精神、批判精神、科学精神がなければならないと考えていたという。これはディドロとダランベールの百科全書の精神と重なるものである。そこには、人間の精神の向上が伴わない知識だけの学者は失格であるという考え方があるように見える。当時の先端科学のみならず、人知の及ばない世界にも開かれていたその脳の中を、いずれこの目で見てみたいものである。


mardi 18 janvier 2011

瞑想生活のある社会 La société avec la vie contemplative


La vie de l'esprit de Hannah Arendt
(14. Oktober 1906 in Linden - 4. Dezember 1975 in New York)


先日、外出前にハンナ・アーレント(Hannah Arendt)のLa vie de l'esprit (精神の生活)の最初の方を何気なく眺めた。そこに、こちらに来る数年前に初めてはっきり意識した動的生活と静的(瞑想・観想)生活の対比が書かれ、12世紀の神学者サン・ヴィクトルのフーゴーHugues de Saint-Victor, 1096-1141)が引用されている。

  
Duae sunt vitae, activa et contemplativa.
Activa est in labore, contemplativa in requie.
Activa in publico, contemplative in deserto.
Activa in necessitate proximi, contemplativa in visione Dei.

動的と瞑想的な二つの生活がある。
動的生活は厄介なことが多いが、瞑想生活は完全な静寂の中で行われる。
動的生活は人に囲まれているが、瞑想生活は人一人いないところで行われる。
動的生活は身近な必要に迫られるものだが、瞑想生活は神の視線に捧げられる。


瞑想生活は精神の最も高いところにあるという認識は、西洋哲学の歴史とともにあった極めて古いものである。プラトンが考えると言う時、静寂の中で行われる自らとの対話を意味し、精神を開くために必須になる。つまり、考えることは瞑想を目指すもので、瞑想とは能動的なものではなく、静的で受動的なものである。精神活動が休息を見出す時でもある。

これを人間が構成する社会や国に当て嵌めるとどうなるだろうか。社会の精神が最高のところに至るためには日常に追われる動的生活だけでは不十分であり、瞑想生活を取り入れなければならないことになる。社会の瞑想生活とは日常を超えた形に見えないものについてわれわれが想いを巡らし、そこで共有された想いがわれわれの上に見えることが必要になる。そして、それとの対比で日常生活を送り、地上と天上の二つの世界を意識して社会の動きを見ることになる。それが瞑想生活のある社会のイメージになる。

それが実現するかどうかは、集団を作っている個人が瞑想生活の重要性に気付き、それぞれが瞑想生活を取り込んでいるかどうかに懸かってくる。そういう個人の生活がなければそれを社会に要求することは難しいだろう。突き詰めると、やはり個人の問題になる。日本の政治指導者の世界観や哲学の欠如という批判がされているが、それはおそらく正しいのだろう。ただ、同時に考えなければならないのは、われわれの精神生活がその批判に耐えるものになっているかどうかではないだろうか。瞑想によりこの世界の根源的な問題について考える時間を持っているかどうかが問題になる。そういう人間が増えなければ、いつまでも選択を誤ることになるだろう。

最高の社会が瞑想生活を取り込んだ社会だとすると、それは教育によるしかないような気がしてくる。科学だけではなく、それと並行して、歴史、哲学、文学などの教養が善く生きるために不可欠であるという教育に。個人の生活に瞑想生活が入るという変化が社会を動かす人の選択に反映され、それがさらに個人の生活に跳ね返ってくるという好循環に至るまでには相当の時間が掛りそうである。それだけにこの問題を考えて形にすることが急がれるように感じている。


ところで、今回ハンナ・アーレントの言葉を聞いている時、こちらに響いてくるものがあることを感じる。この方との付き合いはこれからも続きそうな予感がしている。


dimanche 16 janvier 2011

ジャン・マリー・ブイスーさんによる日本の科学 La condition de la science au Japon selon M. Bouissou



先日、「問われる科学」とでも訳すべきこの本にざっと目を通した。昨年、11月に出たばかりの科学者、哲学者数名によるもの。この中に「日本における近代科学受容の問題点 ― 渡辺正雄さんの見方」(2010年10月27日)で触れた点に関連することが出ていたので振り返ってみたい。近代日本の専門家ジャン・マリー・ブイス―(Jean-Marie Bouissou)さんは日本における科学をこう見ている。

「日本と科学の歴史はトラウマの歴史である。1853年における日本の技術レベルは3世紀前と変わらなかった。例えば、蒸気機関はなかった。日本人はその技術は知っていたが、政府がすぐにその使用を禁止した。文字通り、歴史を止め、社会を停滞させた。しかし、アメリカ船の到来で、すべてが変わった。自らの技術の遅れに気付き、蒸気機関を持っていなかった僅か30年後には驚異的な発展を遂げた。そして1905年にはロシアとの海上戦を制することになり、その数十年後にはアメリカに空中戦を仕掛けることになる。これほどの技術の進歩を見せた国はどこにもなかった。

この点を指摘した上で、日本人が技術の模倣に務めたにもかかわらず、1945年までは科学の本質的なところには特に興味を示さなかった。しかし、広島、長崎の経験で日本は科学に負けたと考えるようになった。そして、ベビーブーマー世代は科学万能、日本復興の旗頭の下で育てられる。ここでは漫画などによる科学の普及も行われた。しかし、80年代にこれが覆る。科学で西欧に追い付いても名声も得られなければ、国際的な尊敬も幸福も手に入らなかったので、科学への熱狂が冷え、特に若者は科学から遠ざかることになる。学生の科学のレベルの国際比較にもそれが表れている。科学がそのオーラを失ったのである。それに気付いた政府はコミュニケーションに力を入れ、公開討論や重要な政策の宣伝に努めている」


これを読んで思い出したのは、昨年参加したアメリカ科学振興協会の総会での日本、中国、韓国の政府関係者の発表である。そこで感じたのは、もちろん国内的なコミュニケーションも大切だが、それ以上に外に向けてのコミュニケーションが重要になるのではないかということだ。そのやり方がいかにも稚拙というか内向きに見えたのである。つまり、西欧と同じレベルの論理構成で話をしたり、特に共通の意識でそこに参加しているという姿勢に乏しい印象を与えるのである。戦後半世紀以上経っても対外的なやり方はあまり進歩していない、あるいは外の視線に対する感度が弱く、外に対する対処法を戦略的に考えていないのではないか、という感想を持った。それは、今のままではいつまでも彼らの枠の外にいる存在としてしか見られない可能性が高いという危惧でもある。しかし同時に、日本はそもそもそんなことはどうでもよいと思っているのではないかという諦めに近い思いも巡っていた。それは科学政策の関係者に限らず、広く政治のレベルにも浸透しているような気がしている。


jeudi 13 janvier 2011

アンリ・アトラン著 「試験管の中の哲学」に見る科学と神話 " La philosophie dans l'éprouvette " de Henri Atlan


La philosophie dans l'éprouvette

de Henri Atlan (né le 27 décembre 1931 en Algérie)


今日手に取ったのは、昨年10月に出てすぐに手に入れたアンリ・アトランさん(79歳)の「試験管の中の哲学」という対談本。その第一章「神話、過去と未来: タルムードからポストヒューマンへ」をゆっくり読む。生物学・医学だけではなく哲学もやってきた方なので、参考になるところが多い。アトランさんのご意見を拝聴したい。

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まず、生物学者であり、哲学者でもあることについて、それは可能であるし、時に望ましいことでさえある。人によっては哲学をやってから科学に入ったり、逆に科学から哲学に入る場合があるが、私の場合は科学と哲学を同時並行で続けてきた。高校の終わり頃からヘブライ語を始め、伝統的な文章を読むうちに自らの実存に関わる問題を考えるようになった。そこからプラトン、カント、ニーチェ、ベルグソンや現代の哲学者を読むようになり、哲学史において特別の位置を占めるスピノザに出会った。そして、長い時間の後、問の性質と解の性質との間にある違いに気付いた。それは、問が哲学的で理性に訴えるのに対し、解の方はしばしば神話に向かうということである。

高校時代から生物学に興味を持っていたので、医学を学ぶのは自然の流れであった。ただ、医学校が終わって気付いたことは、その知識が如何にも表面的だということ。そこで、物理学、生物学、さらに生物物理学を学ぶことにした。医学部で生物物理学教授をしていた最後の方では、幸いなことに実験研究をやりながら社会科学高等研究院EHESS)で哲学研究の指導を依頼された。

新しい人類、あるいはポストヒューマンの時代を向かえていると言われるが、人類の誕生以来、人類は人類で変わらない。もちろん、これからテロや中近東の紛争に触発された核爆発はあるかもしれないし、進化はするだろう。しかし、私が興味を持っているのは、20世紀という僅か100年で起こった人間の状態の変化である。それは二つしかない。一つは洗濯機で、もう一つは避妊薬。これが人類の半分を占める女性の人生を完全に変え、その結果男性も変わったのである。それでも問題になるのは、同じ人類の問題。100年前の戦争の時代の勇気、連帯、祖国愛などは、今は別の領域で発揮されるようになっている。古代の哲学者を調べても現代に通じる問題が扱われている。そこに古典を学ぶ意味がある。

人間は気候変動、汚染、戦争などの自らの未来に関わる問題について決断をしなければならないと言われる。しかし、ここで言う人間とは一体誰のことになるのか。一人の孤立した個人にはその選択の余地はない。抽象的な人間という概念は歴史的に作られたもので、ミシェル・フーコーが言うように、砂浜の絵が波に洗われるように消えてゆくだろう。

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途中から80年代にコルドバで開かれた現代科学と古代の伝統に関する会議の話に変わり、科学と神話の関係が問題になってくる。その話が面白い。

会に参加した一流の科学者の大部分にとっての唯一の理性は科学的理性で、他のすべては寓話であり妄想であるという状況の中で、量子物理学者の何人かは、科学の理性が変わり、奇跡的に古代の伝統と統合されるという考えに共感していたという。アトランさんは、理性は一つだけではなく、神話の中でも他の理性が存在するが、両者を混同しないこと、科学や神話だけですべてを説明できると考えないことが重要だと考えている。

古代ギリシャの哲学者が神話を用いていたように、中世のユダヤの哲学者も聖書や神話のテキストに当たっていた。ここで言う神話を非理性的と理解しないこと。そして、神話には一つの世界の見方が潜んでいて、それは科学とは全く異なるが、科学を補完する理性とも言えるものでもある。現代医学や生物学が生み出した問題、例えば生命倫理などは医学では解決できず、哲学や人文科学、さらに古代の伝統に委ねられる。彼の場合には、これまで研究してきたタルムード(特に、その法的部分)がこれらの問題を考える上で有用であるという。

聖書やタルムード、ミドラーシュカバラ(la kabbale)の解釈の方法に興味を持ち、最も深い意味に到達するには、文字、単語、文字や単語の数的意味、単語の意味の変化などを研究する必要があることを学ぶ。それは「神の言葉」だと間違って言われている聖書を無神論者の書、すなわち著者がいない書として読まなければならないことを悟ることになる。聖書を「神の言葉」として読むことは、ある意味では冒涜に当たると彼は考えている。

また、宗教的かどうかを聞かれ、信仰が神秘的な経験によるものだとすれば、宗教的ではないと答えている。彼の場合には、ユダヤの伝統との繋がりを古代の哲学者の日常の中に見出しているようである。哲学とはできる限り厳密に考えることであるが、知に開かれていること、そして実行に移すこと、すなわち自分の考えを日常生活の中で形あるものにすることでもある。アトランさんの場合には、その過程で伝統的な書の研究や解釈が霊感を与えているようだ。


mardi 11 janvier 2011

ジョルダーノ・ブルーノという修道僧にして哲学者 Giordano Bruno

Giordano Bruno (janvier 1548, Nola — 17 février 1600, Rome)


昨年末、アヴィニョンに向かう前のリヨン駅で見つけたジャック・アタリさん(Jacques Attali, né le 1er novembre 1943 à Alger)のこの本。混迷の時代の航路を照らす灯台の役割をすると彼が考えた24人(日本人では明治天皇が含まれている)が取り上げられている。

Phares. 24 destins (Jacques Attali)

この中に、これまで気になっていたガリレオ(15 février 1564 ― 8 janvier 1642)ともよく比較されるジョルダーノ・ブルーノGirodano Bruno)という修道僧にして哲学者の人生が描かれていた。アヴィニョンまでの車中、じっくり読む。ここで改めて、この人物の人生を振り返ってみたい。

ジャック・アタリさんの嗜好はかなりはっきりしている。余りにも慎重で、余りにも打算的で、勇気も自尊心もないガリレオへの尊敬を強く感じたことはない。それに比べ、ブルーノの身体的な勇気、知的な大胆不敵さ、多岐にわたる天才、そしてその驚くべき運命の方を好むという。それと、シェークスピアの「テンペスト」のプロスペロ(Prospero)のモデルになっていること、NASA に先立つこと4世紀、宇宙における生命の探索という野心的な研究に打ち込んでいたことも彼にとっては重要のようだ。

ルネッサンス末期のイタリアでは教会が反動の極致にあった。宗教改革や科学、特に天文学に反対の立場を採り、焚書のみならず、写本の禁止、グーテンベルグによる印刷物の検閲を行っていた。将来の科学の基になる営み、例えば知識の体系化、概念の研究、記憶の研究、実験的な方法、自然の観察、物質の変換などを取り締まっていた。16世紀の教会はそれは厳しいもので、少しでも疑いがあると幽閉し、拷問し、火炙りにしていた。このような時代にブルーノは大胆にもこう言い放つ。

「宇宙には無数の太陽が存在する。
その周りには無数の地球が回っている。
そこには生物が住んでいるのだ」

そのためローマ教皇クレメンス8世の命により、ローマの街中で火刑に処せられる。1600年2月17日のことであった。

紀元前250年頃にはすでに太陽が中心にあるという説がアリスタルコスAristarque de Samos, env. 310 – 230 av. J.-C.)により出されていたが、自然は聖書の言葉に従って動くとされていた当時、容認された学問は神学だけであった。しかし、それと並行してヨーロッパも開かれつつあった。フランスでは、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシー(1530-1563)が専制を告発し、自由を謳い上げる本を書いたり、フランソワ・ラブレー(1483? - 1553)が「第四之書」を出版。イタリアでは、フィレンツェを避難場所としていたユダヤやイスラムのインテリが人類の遺産を写し、訳し、広めていた。

そんな時代にフィリッポ・ブルーノ(Filippo Bruno)は、イタリアのノーラに生れる。1548年のことである。陽気で記憶力に優れた少年だったが、その無礼さは際立っていた。1562年、両親は当時の人間学(論理学、弁証法、神学)を学ばせるため14歳の彼をナポリに送り出す。

1565年、17歳でナポリにあったドミニコ会に入り、そこで出会った形而上学の師ジョルダーノ・クリスポ(Giordano Crispo)に肖ってジョルダーノと名乗るようになる。ここでは修辞学、形而上学、神学の他に、フランス語、ドイツ語、ラテン語、ギリシャ語を学びながら、芸術を発見し、記憶力に磨きをかける。当時は個人の書斎など望むべくもなかったので、記憶力は知的活動には不可欠であった。そこで彼が読んだプラトン、アリストテレス、ピタゴラス、聖書、さらに危険なエラスムスモーシェ・ベン・マイモーン、コペルニクスなどのすべてを記憶に留めた。そして、すぐに教授連中に飽き足りなくなる。1568年終わりには教皇ピウス5世に自らの記憶術を訴えるため、ローマを訪れている。

1573年、25歳で司祭になるが、精神をより高いところに向かわせるのではなく、自由な人間を鎖に繋ぎ、不可解な体系に奉仕させる奴隷にしようとする教授に対する反抗は留まるところを知らず。2年後には神学の講師になり、教会の大学の教授を目指すが、三位一体の批判、読書内容(特にエラスムス)が異端の扱いになり、教会が支配していたヨーロッパの大学への道は最終的に閉ざされることになる。

ローマ、ジェノヴァ(Gênes)、さらにパドヴァブレシアベルガモでポジションを探るもうまくいかず、1579年、31歳の時ジュネーヴに旅立つ。それからトゥルーズを訪問。彼の悪評が届いていなかったのか、そこで神学の学位をもらい、宇宙論と哲学を教えていた。翌1580年にはパリに落ち着き、アンリ3世の計らいでコレージュ・ド・フランスの前身である王立教授団に職を得て、トマス・アクイナス、天文学、神学、記憶の講義をする。

記憶の研究は、彼の精神運動を思考の構造、発見の過程、さらに人間の性質、宇宙の特殊性へと向かわせることになる。そして、ライプニッツやスピノザに先駆けて、人間は宇宙における偶然の存在でしかないこと、現実とは人間の精神により創り出されるものであること、そして観念とは真実の天体であることを説くのである。1582年、34歳の時、神学者の欺瞞、性的妄想をからかう「カンデライオ」(Le Chandelier)を出版する。それ以来、舞台が彼の表現の場となる。

それからロンドンにも行き、エリザベス1世の庇護を受けている。そこで、いくつかの著書を物し、コペルニクスや魂の不滅や再来について講義をしている。また、ストラトフォード・アポン・エイヴォンとロンドンの間を行き来していたシェークスピアと会っていたかもしれない。「恋の骨折り損」(Love's Labour's Lost)のビローンは三年の間寝食と女性を忘れ研究に没頭する人物で、ブルーノに霊感を受けた可能性がある。そして、シェークスピア最後の作品に出てくる精神と空気をコントロールする明晰な魔術師プロスペロ。この人物は作者の自画像であり、ブルーノにもよく当てはまると言われている。

1584年の灰の水曜日、オックスフォード大学で彼がイタリア語で出した哲学書「灰の晩餐」を標的にした激しい討論会が開かれる。当時の学問と商業の言語はイタリア語で、フランス語はむしろ政治の言葉、そして英語はまだヨーロッパに広がっていなかった。その中で、ブルーノは古代ギリシャよりはビールに詳しいオックスフォードの教授を馬鹿にして、こう主張する。地球が宇宙の中心でないばかりか、太陽もその中心ではない。この宇宙は無数の宇宙からできている。そして神はこの無限の内にある。変わらないものは何もなく、すべては相対的な存在で常に変化している。したがって、人間が宇宙で特別の価値がある存在ではあり得ない。

何という現代性だろうか。そして、思想の自由への賛歌を謳い上げ、カトリック教会の優位性について疑義を差し挟み、魂の再来について語る。

「一人の人間の魂は神そのもので、体から体へ移行する。
すべての魂は宇宙の魂を構成し、すべての存在は最後には一つになる。
一人ひとりの魂は知の太陽に至るための翼となる炎によって命を与えられている」

「知の太陽」である。



Statue de Giordano Bruno sur la place du
Campo de' Fiori


ロンドンでの状況が再び悪化し、どこかに向かわなければならなくなるが、一体どこにその場はあるのだろうか。イタリアに帰りたい気持ちはやまやまだったが異端審問が厳しく、また自由の国として名高いオランダの状況も捗々しくない。ブルーノは結局パリに戻ることにする。ただ、彼は懐疑だけを信じていたのでソルボンヌの教授職にもありつけず、自らの作品の放棄を要求する教会との和解も無理であった。40歳の彼は一人で、訳し、読み、講義をするが、生活は苦しく、飢えと寒さに苦しむこともあった。迷った挙句、ドイツに移ることにする。

1586年、先ずマールブルグに向かうが歓迎されず、ヴィッテンベルクへ。そこの大学で教授として哲学、宇宙論、芸術、記憶を教える。おそらく、彼の人生で最良の2年間ではなかったのだろうか。彼の考えには、次のようなものがあった。知識には芸術的、魔術的、そして音楽的というような多面的な要素がある。聖書は文字通りに解釈すべきではない。疑いを持つこと、つまり「哲学的自由」が必須になる。

1588年、大学の状況が変化し、どこかに移らなければならなくなる。先ず、ルドルフ2世の治世に入ったばかりのプラハへ。この皇帝は芸術家(バルトロメウス・スプランヘルジュゼッペ・アルチンボルド)や科学者(ティコ・ブラーエヨハネス・ケプラー)を庇護し、占星術師や錬金術師を身近に置いていた。ブルーノはこの皇帝のために1冊献呈している。そして、庇護を求めてヘルムシュテットへ向かうが、その侯爵が暗殺される。彼の人生は一体どうなっているのだろうか。

この頃から錬金術、魔術、カバラに傾斜し、作品が神秘主義的になっていく。1590年、フランクフルトを訪問。1592年にはイタリアのベニスへ。この町ではモチェニゴ家の世話になる。そのホストは彼に魔術を教えるように迫るが、それが罠であることに気付き言い逃れを続ける。パドヴァ、ローマでの職を探るも得ることはできず。そして、フランクフルトに戻ろうとした前日、部屋に閉じ込められ記憶術と幾何学を教えなければ出さないと宣告される。そこからベニスの異端審問刑務所に移される。

罪状は、無限の宇宙と無数の太陽系の存在を説き、キリストを批判し、魔術を使い、三位一体を論駁し、宇宙の永遠性の故に創造を否定し、世界の無限を信じ、輪廻転生métempsycose)を信じ、神学を悪し様に言い、異端審問を軽蔑し、聖母マリアの処女性を否定し、女性を誘惑した、、、などで、一つでも証明されれば命を落とすことになる。

拷問を交えた尋問が行われるが、彼はどれも認めない。そこにローマから移送の要求が届くが、ベニスは拒否。しかし、クレメンス8世がブルーノはナポリ人なのでベニスが守る理由はないと主張。最初は抵抗していたベニスだが、最後は教皇の主張を受け入れる。

1593年2月、ブルーノはローマのサン・ピエトロ大聖堂に隣接する異端審問刑務所に移される。クレメンス8世への謁見を要求するも却下。それから拷問を挟んだ審問が始まるが、この間の様子はほとんどわからない。ナポレオンが資料をパリに持ち帰り、それ以後どこかで二束三文で処分された可能性があるからだ。ただ、三位一体や輪廻転生に対する態度は軟化したようだが、世界が多数あること、宇宙の永遠性については意見を曲げなかった。

逮捕されて5年後の1597年、世界の多数性についての審問が再開。拷問にもかかわらず持ちこたえる。1599年9月、21回目の審問でブルーノは哲学的研究が継続できるという条件付きで部分的な自説撤回の交渉を申し出るが、12月に教皇は拒否。判事は全面撤回を迫るが、ブルーノは何も撤回しないし、撤回しなければならないものもないとして交渉を諦める。

1600年1月20日、クレメンス8世はブルーノに40日の考慮期間を与え、異端審問を命じる。2月8日、ブルーノを跪かせ、8日の悔悛期間付きで火刑の審判を言い渡す。彼は叫ぶ。

「それを聞いている私より審判を言い渡すお前たちの方が間違いなく怖がっている」

2月17日夜明け時、自説を否定する最後の機会を拒否したブルーノはカンポ・デ・フィオーリ広場に引き出される。


彼の死後(1603年)、彼のすべての著作は読んだり引用しただけで破門になる禁書扱いにされる。1616年、ガリレオが同じ状況に陥る。しかし、ブルーノほどの勇気や大胆さは持ち合わせていなかった。「聖書はどのようにして天に行くべきかを教えているが、天がどのように行っている(動いている)のかを教えてはくれない」とは言ったが、彼は譲歩し、最終的には在宅の謹慎処分にしかならなかったのだ。

その後、ブルーノの作品の再評価が始まり、19世紀にはイタリア統一運動リソルジメント)のインテリの間のヒーローとなり、放浪する哲学者、勇気、無礼な人間、そして自由な思想家の象徴となる。19世後半から、ブルーノが火炙りにされたその場所に銅像を建てる計画が持ち上がり、1885年にはその計画を検討するための国際委員会(ヴィクトール・ユーゴーハーバート・スペンサーエルネスト・ルナンエルンスト・ヘッケルヘンリック・イプセンなどがメンバー)が開かれる。そして1889年、時のローマ教皇レオ13世の反対を押し切って、その像は立てられた。1979年になり、教皇ヨハネ・パウロ2世によってガリレオとともに審判の不当性が明らかになり、名誉が完全に回復される。


ブルーノは時代を先んじている高価な代償を払わなければならないことを常に知っていた。今日で言うところの認識論意味論相対性理論宇宙論遺伝学などの萌芽を自らの思想の中に含んでいることを本能的に感じ取っていたのではないだろうか。権力に拒否され、無知蒙昧に追われ、長い遍歴の中で書き残したものの中に、一体どんなものが眠っているのだろうか。いつの日かのリストに入れておきたい。


vendredi 7 janvier 2011

杉田玄白著 「蘭學事始」 を読む

杉田玄白著 「蘭學事始
(昭和三十四年第一刷、昭和四十二年第十二刷、校註者緒方富雄)


おそらく、必読書のようなリストに挙がっていたのだろう。しかし、いつの間にか忘れてしまったようで、"must" に挙げられた途端にやる気が失せるというわが身の性質を見る思いだ。昨年日本の本棚で発見。こんなものまで読もうとしていた昔の存在に想いを馳せながら持ち帰った。そしてこの正月、40年以上経ってやっとのことで読むことになった。

読み始めてすぐ、登場する人物が非常に近く感じられ、予想以上の面白さに時が消える。ただ、もっと早く読んでいればよかったのに、という感情は湧いてこない。今がこの本を味わうのに最適の時だったのだろう。まさしく、パングロス博士の言だ。年月を経て何かに辿り着くというこの感覚に繋がるところがあった。

「さてその好き嗜むといふことはアーンテレッケン(註:ひきつける)といふなり。わが身通詞の家に生れ、幼よりそのことには馴れ居りながら、その辭(ことば)の意何の譯といふを知らず。年五十に及んでこの度の道中にてその意を始めて解し得たり」

やっとわかったということを口に出しているところに、思わずにんまりする。至るところで昔の日本人の感性に触れ、このにんまりがしばしば現れるのだ。人物評も吹き出してしまうほど面白いところがある。言ってみれば、彼らは今の私と似たような境遇。漢学は留学生などを送り蓄積があるのに対し、蘭学は全く訳のわからない異文化、異言語だ。その壁に接し、暗中模索、悪戦苦闘している。玄白翁がその人間の姿と心を素直に語られているところがいとをかし、なのである。フランス語を始めて1-2年の間、壁が前に立ちはだかり、どうしても向こう側が見えないもどかしさを感じていたことを思い出す。

例えば、玄白は自らをこう評価している。

「翁は元来疎漫にして不學なるゆゑ、かなりに蘭説を翻譯しても人のはやく理會し暁解するの益あるやうになすべき力なし。されども、人に託してはわが本意も通じがたく、やむことなく拙陋を顧みずして自ら書き綴れり」

そして興味を惹いたのは、前野良沢という人物。幼くして親を失うも伯父の宮田全沢に育てられ、愛すべき人物に成長している。少し長くなるが、、

「さて、翁が友備前中津候の醫官前野良澤といへるものあり。この人幼少にして孤となり、その伯父淀侯の醫師宮田全澤といふ人に養はれて成り立ちし男なり。この全澤、博學の人なりしが、天性奇人にて、萬事その好むところ常人に異なりしにより、その良澤を教育せしところもまた非常なりしとなり。その教へに、人といふ者は、世に廢(すた)れんと思ふ藝能は習ひ置きて末々までも絶えざるやうにし、當時人のすててせぬことになりしをばこれをなして、世のために後にその事の殘るやうにすべしと教へられしよし。

いかさまその教へに違はず、この良澤といへる男も天然の奇士にてありしなり。専ら醫業を勵み東洞の流法を信じてその業を勤め、遊藝にても、世にすたりし一節載(ひとよぎり)を稽古してその秘曲を極め、またをかしきは、猿若狂言の會ありと聞きて、これも稽古に通ひしこともありたり。かくの如く奇を好む性なりしにより、青木君の門に入りて和蘭の横文字とその一二の國語をも習ひしなり」

中に、「業は本草家にて生れ得て理にさとく、敏才にしてよく時の人氣に叶ひし生れ」の浪人、平賀源内も登場し、その奇才ぶりが紹介されている。

自ら腑分けに立ち会った玄白は、和蘭との間に「千古の差がある」とオランダの医学書の正確さに驚いている。漢書の比ではなかったようだ。玄白翁がターヘルアナトミアの訳書「解体新書」の出版により罰せられるのではないかとの恐れを抱くところがある。「江毛談(おらんだばなし)」というアルファベット入りの書がなぜか絶版になるのを見ていたので、出版すべきかどうか迷うのだ。中世ヨーロッパとは比べものにならないだろうが、当時蘭学に対する厳しい目があったことを想像させる。しかし、「解体新書」は何ごともなく出版され、後年こんな回想をしている。

「過ぎこしかたを顧みるに、未だ新書の卒業に至らざるの前に、かの如く勉勵すること兩三年も過ぎしに、暫くその事體も辦ずるやうになるに随ひ、次第に蔗(さとうきび)を噉(か)むが如くにて、その甘味に喰ひつき、これにて千古の誤も解け、その筋たしかに辦へ得しことに至るの樂しく、會集の期日は、前日より夜の明くるを待ちかね、兒女子の祭見にゆくの心地せり」

サトウキビを先端から噛んで根に向かうと、次第に甘さが増してくるという。次第にものが見えてくる悦びが表れていて、微笑ましくもあり、肖りたくもあり。時は下るが、福沢諭吉が明治二十三年(1890年)に再版によせた序などは予想もしない光景に驚いたが、最早そういう気持ちになることなど想像もできない世に生きていることを改めて思い知らされる。

「就中明和八年三月五日蘭化先生の宅にて始めてターフェルアナトミアの書に打向ひ、艪舵なき船の大海に乗出せしが如く茫洋として寄る可きなく唯あきれにあきれて居たる迄なり云々以下の一段に至りては、我々は之を讀む毎に先人の苦心を察し、其剛勇に驚き、其誠意誠心に感じ、感極まりて泣かざるはなし」


読んで感じるのは、あくまでも日常の経験の中で目に見えるところを工夫しながら一つのまとまりをつけて行くというやり方が行われていて、哲学的な思索は見られない。以前に NHKの 「プロジェクトX」 という番組を見て感じたことと近いものがここにもある。それはあくまでも細部の工夫に拘り、背後にある原理を探ろうとする精神運動に向かわないという日本文化の特徴のようなものだろうか。そこに懐かしさを感じたのかもしれない。





lundi 3 janvier 2011

科学と自由について


「芸術、科学、自由な生活」
・・・ おお友よ、君たちとわれわれの間に
一体何があるのか

ポール・クローデル

  
今年の正月、ティモシー・フェリス(Timothy Ferrris)さんのこの本に目を通した。

  The Science of Liberty: Democracy, Reason, and the Laws of Nature

  「自由の科学: デモクラシー、理性、自然の法則」

科学の歴史が多くの科学者・哲学者の紹介とともに語られている。そこでのテーマは、デモクラシーの成熟度と科学の発展との関連だろうか。この場でのテーマにもなっている科学精神を自由の視点から見たものとも言えるだろう。人間に自由がなければ、十全な科学は望めない。いろいろな試みができなければ、科学が成り立たないからだ。逆に言うと、科学は人間の自由を要求する。

リベラリズムデモクラシー。リベラリズムは哲学的な概念で、原理原則であり、理想である。それは変化を歓迎し、個人の創造性を大切にする。すべての人間が同じ権利を持つと考える。人間が無知であることを理解し、学び続ける自由を求める。あらかじめ遠い未来の計画などできないことを知っている。科学の精神と極めて近いのだ。一方、デモクラシーは社会的な要請による権力が内包された現実的な対応である。リベラリズムに対してデモクラシーの評判がよくない訳がわかる。

科学が生まれる前、ある考えの評価には二つの方法しかなかった。論理による批判と他の考えとの比較である。科学はそこに実験による検証を加えた。科学には金と時間が必要になるのだ。したがって、社会に余裕や変化を歓迎する空気がなければ科学は行えない。科学が交易により富を蓄え、進取の気性に溢れた地で生まれたのは必然であった。人々が見知らぬ国の香りや見慣れないものに対する興味を自然に抱いていたからだ。



人は壁を造り過ぎ、充分な橋を造らないのだ

アイザック・ニュートン


科学は二つの流れに沿って発展してきた。一つは、フランシス・ベーコンが強調した観察から出発し、仮説を導く帰納。もう一方は、ルネ・デカルトが強調した原則から出発する理性的な思考で、演繹に当たるもの。前者が実験的で、後者は理論的に見えるが、実際にはその両者が必要になる。政治的にみると、前者はリベラリズム、後者は社会主義の背景に見られるという。

ベーコンはケンブリッジ大学で学んだ哲学が無意味な論理学に終始し、科学には向かないと考える。その代わり、観察、実験、帰納による議論を新しい方法として提唱する。一方、どこまでも数学的な精神の持ち主デカルトは、理性に基づく演繹により哲学を再構築する。すべては彼の頭蓋骨の中で行われるのだ。

ニュートンはデカルトをよく研究していた。デカルトが一つの疑う余地のない仮説から全宇宙を構築できると考えたのに対し、ニュートンは知らないことがあることを認める立場を取り、すべてを知っていると装うのではなく、真理の一部分を明らかにするだけで由とする。そして、"hypotheses non fingo" (私は仮説を立てない)という言葉を残す。デカルトの "cogito ergo sum" (我思う 故に我あり)とは対極に位置するかもしれない。

  デカルトの人生 La vie de Descartes

この二つの流れは科学を超えて社会の転換期にも大きな役割を果たしているとフェリスさんは見ている。例えば、フランス革命。あれだけ科学に力を入れていたはずのフランスで、なぜあのような血の海に至る野蛮に陥ったのか。フリーメーソンイルミナティなどによる陰謀説もあるようだが、彼は実験した結果に則って先に進むという科学やリベラリズムの基本的な教えを無視し、ある哲学をそこに押し付けようとしたためであり、しかもその哲学が間違っていたと考えている。デカルトの伝統があるフランスでは先ず原則から始める傾向があり、ベーコン流の実験と帰納は低く見られていたのではないかと考えている。つまり、フランス革命を導いたのは科学ではなく、哲学だったと言いたいようだ。平等という理想が教条的になり、状況に合わせて手法を変える柔軟性がなくなる。そのため、とにかく手段を選ばず突き進む。さらに悪いことにロマンティシズムと結び付き、熱狂が燃え上がることになった。社会主義や全体主義に見られる狂信的な頑なさがそこにある。絶対的なもののない科学とは対照的な経過をとることになったのだ。



仲介者としての使命しか持たない人たちがいる
われわれは橋として彼らを乗り越え
そしてさらに遠くまで行くのだ

ギュスターヴ・フローベール


一般向けに科学の本を書くのは優れた研究者のやるものではないと暗に考えられている日本とは対照的に、フランスでは科学の普及を一流の研究者が積極的にやるという印象を持っている。科学の普及が重要であり、評価されているからではないかと思っていた。その起源になるのかどうかわからないが、18世紀に科学の驚異を一般大衆に普及するために工夫された多くの本が出版され、その世紀の終わりには出版数が4倍に跳ね上がったという。

また、アメリカの思想家は哲学に対して懐疑的で、よく知らなかったというところもある。例えば、ジェファーソンやフランクリンは論理的な推論は数学に限局されるもので、デカルトの合理主義哲学には慎重であったという。