vendredi 14 septembre 2012

国立感染症研究所での講演終わる


昨日は国立感染症研究所へお話をするために出かけた

アメリカ時代からの友人であるK氏、学会でわたしの話を聴き興味を持たれたというオーガナイザーのA氏のお誘いで

現場の科学者を知を愛する語りである哲学へお誘いするためもあり、お引き受けした

国の研究所なので、国の医療行政に寄与する仕事でなければ受け入れられない状況とのこと

目的が決まった研究、さらに業務も加わる

わたしの研究スタイルとは相容れないものがあり、耐えられそうにない

研究そのもののあり方について、立ち止まって考える人間が出てきてもよさそうなのだが、、、


その状況はある程度予想できたので、ヨハネス・ケプラー (1571-1630) の考えについても触れることにしていた

彼は科学を創造された完璧な世界について瞑想し、自らの精神を高めるための手段と見ていた 

 物を中心に置く考えから離れ、本質的な問いを考えるための道であるとも見ていた

 経済的な価値ではなく、音楽や絵画と同様の美的価値の追求こそ科学であると考えていた

つまり、突き放した客観的態度で臨むのではなく、精神を含めた全身が関わるような営みとして科学

心身分離の激しくなっている21世紀ではなかなか受け入れられなくなっているのだろうか

今の状況について一歩引いて考えることはせず、流れに身を任せているだけになっているのだろうか


そういう環境なのでK氏はどの程度の参加者がいるのか心配されていたようだが、ご本人の予想は超えていたとのこと

この日は村山庁舎ハンセン病研究センターとの三元中継を予定していたようだが、都合で村山庁舎との二元中継となった

それにしても、このような話に興味を持たれる方が多いということに驚かされる

その期待に応えることができたのかは、いつものように心許ない

話の後のディスカッションでもたくさんの質問が出てきて、こちらの方が刺激を受けた

 このような活動をしていると、科学と社会との接点で仕事をされている方とのお話も抵抗がなくなる

と同時に、お互いの間に引力が働くように感じる

いつのことになるのかわからないが、日本でそのような方向に歩み出すことはあるのだろうか


会場では思わぬ方々と顔を合わせることになった

研究領域が一緒だったO氏とM氏、昔の研究所、研究室で一緒だったダブルW氏など

日本に住んでいれば驚くことなどないはずなのだが、遠くにいてそのあたりの繋がりが飛んでしまったようだ


夜はK氏、A氏、M氏の他、部長をされているK氏、退官後広報を担当されているF氏の皆様が加わり、夕食を共した

話題は研究内容そのものではなく、研究体制の問題、科学論、文化論、そして現世のお話が出たように記憶している

最後に残るのは、そちらの問題になるのだろうか

大いに楽しませていただいた

皆様に感謝したい



lundi 20 août 2012

The New School のシンポジウム "Does Philosophy Still Matter?" を観る




37℃を超える日が続いている

暑気払いに、ニューヨークの The New School で行われたシンポジウムを観ることにした

「哲学にまだ意味はあるのか」
 "Does Philosophy Still Matter?"

The New School で教えているジェームズ・ミラーさん (James Miller)の本が出たのを記念しての昨年の会らしい

Examined Lives: From Socrates to Nietzsche (Farrar, Straus and Giroux, 2011)

実はこの本、今年の春、パリの英語本リブレリーで手に入れ、少しだけ読んでいたことを思い出す

予想もしなかった繋がりが現れ、この会が身近に感じられるようになる


他のパネリストは、以下の通り

サイモン・クリッチリーさん (Simon Critchley): The New School で教えている哲学者

アンソニー・ゴットリーブさん (Anthony Gottlieb): 元 The Economist 編集長、哲学の歴史に関する著作あり

The Dream of Reason: A History of Philosophy from the Greeks to the Renaissance (WW Norton, 2002)

アストラ・テーラーさん(Astra Taylor): スラヴォイ・ジジェクなどの現代哲学者のドキュメンタリーを制作

コーネル・ウェストさん (Cornel West): プリンストン大学で教える哲学者、活動家

モデレーターは元 Harper's Magazine 編集長のルイス・ラパムさん(Lewis Lapham


哲学をどう見るのかに関しては、特に驚くことはなかった

ただ、表現の仕方や問題の切り取り方には興味深く参考になることがあった

特に、コーネル・ウェストさんの切り口には面白いところがあった


改めて強調すべきは、哲学を専門家の中に閉じ込めておくのではなく、その意味を外に向けて広く語りかけること

ペーター・スローターダイクさんの言を俟つまでもなく、哲学にはその中に他者を誘う使命があるからでもある


もう一つ、不思議な繋がりが現れた

昨年6月、学会でニューヨークに滞在した折、その昔働いていた研究所を訪問した

Sentimental walk in Manhattan and talk with Dr. Hammerling (2011.6.20)

その時、ヘメリング博士の口からニューヨークにもThe New School という哲学のいいところがあると聞いていたのだ

こういう具合に過去が蘇ってくる時、いつものように少しだけ涼しい風が吹いてくるのを感じる




vendredi 17 août 2012

東京での二つの講演


9月の一時帰国では、9月11日、12日の 「科学から人間を考える」 試みの他、2つの講演が予定されている


ひとつは、東京で開かれる第36回日本神経心理学会

9月14日(金)夕方からの教育講演

演題は、「神経心理学を哲学する」 
"Philosophical problems in neuropsychology"

要 旨:
神経心理学の臨床を症状の記載に始まる器質的変化の同定とその修復を目指す学問であると定義すると、いくつかの哲学的問題が現れる。第一 に、症状の記載に関わる言語の問題。第二に、ある精神・心理症状から脳内の原因がわかるのかという相関性(correlation)と因果性 (causality)の問題。第三に、その精神活動は本当に特定された局所だけに因っているのか、他の領域の関与はないのかという部分と全体の問題。第四に、脳内の物質の物理・化学的変化から非物質である精神活動がどのようにして現れるのか、歴史的にはデカルトが明確に分けた空間を占める物質としての身体(延長実体)とそれとは重ならない非物質としての精神(思惟実体)がどのように影響し合っているのかを問う所謂「心身(心脳)問題」。第五に、対象者の症状のどこからを異常と見做すのかという正常と病理の間にある本質的な相違、および病気の治癒をどのように捉えるのかという問題。そして第六には、病気を契機として現れるそれまでの日常から乖離した新しい状況に人間がどのように関わっていくのかという人間と環境の問題などが考えられる。これらの古くて新しい問題は神経心理学が内包するだけではなく、医学全般にも当て嵌まる大きな広がりを持つもので、そこには人類の膨大な思索の跡が残されている。この発表では、それぞれの問題点を概観した後、心身(心脳)問題、正常と病理の問題、さらに人間と環境の関係をどう捉えるのかを中心に考察を進め、現場に身を置く皆様のご批判を仰ぎたい。

もうひとつは、9月13日(木)夕方からの国立感染症研究所における学友会セミナー

演題は、「なぜ科学に哲学が必要になるのか」
“Why is philosophy needed to science?”

要 旨:
古代ギリシャから17世紀に至るまで科学と哲学は不可分の関係にありました。その後、新たな方法を得た科学が哲学から自立する過程で、思弁だけを方法論とする哲学を科学から排除することになります。明治期の日本が西洋の科学を導入する際、国を興すために必要となる技術の導入には力を入れましたが、科学を生み出し支えてきた文化や精神的側面は見過ごされました。その傾向は第二次大戦から現在に至るまで続いています。昨年の3.11以降、日本の科学の惨状が白日の下に晒されましたが、その背景にもこの問題があるように見えます。この発表では、科学と哲学との関係を振り返りながら、科学をより十全なものにするために不可欠になる哲学的視点の重要性について考えます


この領域に入ってから、できるだけ多くの方に哲学的視点の重要性を知っていただきたいと思っている

ペーター・スローターダイクさんを俟つまでもなく、哲学にはその中へ他者を誘う使命があるからだ

偶の帰国は、そのための貴重な機会になっている




jeudi 16 août 2012

第3回 「科学から人間を考える」 試みのお知らせ (3)


第3回 「科学から人間を考える」 試みを以下の要領で開催いたします。

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。

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第3回 「科学から人間を考える」 試み
The Third Gathering SHE (Science & Human Existence)
テーマ: 「正常と病理を考える」
2012年9月11日(火)、12日(水) 18:20-20:00
いずれも同じ内容です 


今回は、われわれの人生において避けては通れない病気に関連した問題を取り上げます。個々の病気については学校で教えられていますが、そもそも病気とは?という問はそこから除外されています。病気をどのように捉えればよいのか。正常と病理との間に境界はあるのか。健康とは、あるいは病気が治るとはどのような状態を言うのか。いずれも大きな難しい問ですが、ここではこれらの問題を考え始めるための枠組みについて講師が40分ほど話した後、約1時間に亘って意見交換していただき、懇親会においても継続する予定です。このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしています。
 
会場: カルフール会議室 (定員約20名)
Carrefour

 東京都渋谷区恵比寿4-6-1 恵比寿MFビルB1
電話: 03-3445-5223


参加費 
一般 : 1,500円 (コーヒー/紅茶が付きます)
高校生・大学生: 無料 (飲み物代は別) 

会の終了後、懇親会を予定しています。

参加を希望される方は、希望日懇親会参加の有無を添えて
hide.yakura@orange.fr まで連絡いただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。


これまでの会のまとめは以下のサイトにあります。




jeudi 28 juin 2012

La problématique、あるいはどう問を作り直すのかの科学


言葉の意味を知らないで、見栄えや聞こえがよいから使っていることが少なくない
深い意味も調べずに
そのひとつに la problématique があった

それまで、ものごとの問題点というような意味合いで何気なく使っていた
これから扱うテーマをこの言葉の下に並べるのである
ところが、それはこの言葉の意味とは違ったのである
そのことがわかり、目の前が開ける思いがした

言葉の定義によると、問を如何に形作っていくのかに関する技術、あるいは科学とある
つまり、問をどのように扱い、理解しようとしているのかというところまで踏み込むことを意味している
問やテーマの正当性を論じることではなく、その問に向かう戦略が絡んでくる
一つのテーマを分解し、出てきた個別の問を独自の視点で論理的に結びつけることが求められる
一見わかっているように思われていることに、それまでとは違う形を与えて検討すること
その営み la problématisation は、どのような対象を相手にする時にも不可欠な第一歩になりそうである

決まりきったものの見方を廃し、新たな視点から問を出し直すこと 
その過程に調査や解析が必要なのはもちろんだが、それに加えてリフレクションの時間が欠かせない 
条件反射だけが罷り通っているように見える今の世
そこでは入力と出力だけで、その間を結ぶものが何もない
中枢が空っぽなのである
リフレクションという精神運動を意識的に取り戻さなければ、閉塞や沈滞がいつまでも付き纏うように見える



mardi 26 juin 2012

ルソー著 「孤独な散歩者の夢想」 を味わい直す


 Jean-Jacques Rousseau méditant dans le parc de La Rochecordon (1770)
Alexandre-Hyacinthe Dunouy (1757–1841)


手元には10年ほど前に仕入れたワイド版岩波文庫 「孤独な散歩者の夢想」 がある
先日のオランダ旅行から戻り、ルソーさんのこの本を手にしてみた
以前に読んだ時と全く違う印象で驚く

その理由は、おそらく彼がやっていること、考えていることが今のわたしのそれと重なるからだろう
どこかの誰かがやっていることを客観的に眺めているというのではない
自分が今やっていることをそこに見る思いがするのだ
ルソーさんが他人に見えなくなるのだ
 その意味では、能動的で理想的な読みになっている
  今野一雄訳で味わい直してみたい


第一の散歩
「慰めも、希望も、平和も自分の内部にしかみいだされないのだから、わたしは余生をひとりで暮らし、もう自分以外のことは考えるべきではないし、考えたく もない。わたしはこうした状態において、かつてわたしの 『告白』 と呼んだきびしい誠実な検討のつづきにとりかかる。わたしは自分というものの研究に晩年を捧げ、遠からず出さなければならない報告をいまから準備する。自 分の魂と語り合う楽しみに浸りきろうではないか。この楽しみこそ人々がわたしから奪い去ることのできない唯一の楽しみなのだから。自分の内面的傾向につい て反省を重ねることによって、それをさらによいほうに向け、なお残っているかもしれぬ悪を改めることができるなら、わたしの省察は全然無益なことにならな いし、もう地上にあってはなんの役にもたたないにせよ、わたしは晩年をまったくむだにすごしたということにはならないだろう」
「わたしはモンテーニュと同一の計画を立てているのだが、その目的はかれのとは全然逆である。というのは、かれはその 『随想録』 をもっぱら他人のために書いたのだが、わたしはひたすら自分のためにわたしの夢想をしるすのだ。わたしがもっと年をとり、この世を去る時が近づいて、いま そう願っているように、そのときも現在と同じ心境にあるならば、これを読むことは書くときに味わった楽しさを思い起こさせ、過ぎ去った時代を胸によみがえ らせ、いわばわたしの存在を二重にしてくれるだろう。人々にはお気の毒だが、わたしはなお魅力ある交遊を楽しむことができ、老いはてたわたしは、別の年ご ろの自分とともに暮らすことになるだろう。自分ほど年をとっていない友人とともに暮らすように」

第三の散歩
「わたしはわたしよりもはるかに学者らしく哲学する人にはたくさん出会ったことがあるけれども、その人たちの哲学はいわばかれらにとって無縁のものであっ た。他人より物知りになろうとするかれらは、そこらにみられるなにか器械のようなものを研究するのと同じく、たんなる好奇心をもって宇宙を研究し、どんな ふうにそれが組み立てられているのかを知ろうとしていた。かれらが人間性を研究するのはそれについて学者らしい話をするためで、自分を知るためではない。 かれらが勉強するのは他人を教えるためで、自分の内部を明らかにするためではない。かれらのうちの多くの者は、書物を書くことだけを考え、どんな書物であ ろうと、ただ世に迎えられさえすればいいのである。書物を書きあげて出版してしまうと、もうその内容にはいっこうに関心をもたない。ただそれを他人に受け 入れさせることが、またそれが攻撃される場合には、弁護することが問題となるにすぎない」
 「結局、わたしは自分にこう言った。達者にしゃべる連中の詭弁にいつまでも翻弄されているのか?かれらがお説教する思想、あれほど熱心に他人に押しつけ ようとしている思想は、ほんとうにかれら自身の思想であるかどうか、それさえはっきりしないのだ。・・・ かれらの哲学は他人のための哲学だ。わたしは自分のための哲学を必要とするのだ。これからの生涯にたいする確乎たる行動の規準をみいだすために、時機をう しなわないうちに全力をつくしてそれを探求しよう。自分はいま成熟して、悟性がもっとも発達した年齢にある。自分はもう人生の下り坂にかかっている。これ 以上待っていたのでは、熟慮の時ではなくなるし、自分のあらゆる能力を使用することもできなくなる。わたしの知能は活動力をうしなって、今日ならばあたえ られた最善をもってなしうることをそのときにはもうできなくなる。この有利な時機を捕えようではないか」

第五の散歩
「これまでにわたしが住んだすべての場所 (それにはすばらしいところもあったのだが) のなかでビエーヌ湖のまんなかにあるサン・ピエール島のように、ほんとうにわたしを幸福にしてくれたところ、深い愛惜の念を心に残したところはほかにな い。・・・  ビエーヌ湖の湖畔はジュネーヴ湖の湖畔にくらべるといっそう野性的でロマンチックである。それは巖や森が水ぎわまで迫っているからだ。けれども景色はや はり明るく美しい。高地やぶどう畑は少なく、聚落や人家はまばらでも、そこには自然のままの草原や、牧場や、木立の陰の休息の場所がたくさんあって、起伏 と濃淡に富んでいる。湖畔には幸いにも車馬の往来に便利な街道もないので、この地方を訪れる旅行者は少ないが、そこは孤独な瞑想者、思いのままに自然の魅 力に酔いしれ、静寂のうちに心を落ちつけて、その静寂を破るものはただ鷲の叫び声、時折りきこえてくるなにかしらぬ鳥のさえずり、そして山から落ちてくる 奔流の響き――こういう境地を愛する者にとっては興味あるところだ」
「しかし魂が十分に強固な地盤をみいだして、そこにすっかり安住し、そこに自らの全存在を集中して、過去を呼び起こす必要もなく未来を思いわずらう必要も ないような状態、時間は魂にとってなんの意義ももたないような状態、いつまでも現在がつづき、しかもその持続を感じさせず、継起のあとかたもなく、欠乏や 享有の、快楽や苦痛の、願望や恐怖のいかなる感情もなく、ただわたしたちが現存するという感情だけがあって、この感情だけで魂の全体を満たすことができ る、こういう状態があるとするならば、この状態がつづくかぎり、そこにある人は幸福な人と呼ぶことができよう。・・・ こうした状態こそわたしがサン・ピエール島において、あるいは水のまにまにただよわせておく舟のなかに身をよこたえて、あるいは波立ちさわぐ湖の岸べにす わって、またはほかの美しい川のほとりや砂礫の上をさらさらと流れる細流のかたわらで、孤独な夢想にふけりながら、しばしば経験した状態なのである」
「あのような生活をもういちどよみがえらせることはできないものか?あのなつかしい島に行って、ふたたびそこを離れることなく、対岸の住人にはだれにも会わないで、わたしの一生を終えることはできないものか?」







vendredi 8 juin 2012

第3回 「科学から人間を考える」 試み (2)



 The Third Gathering SHE (Science & Human Existence)
テーマ: 「正常と病理を考える」
2012年9月11日(火)、12日(水) 18:20-20:00
いずれも同じ内容です 


今回は、われわれの人生において避けては通れない病気に関連した問題を取り上げます。個々の病気については学校で教えられていますが、そもそも病気とは?という問はそこから除外されています。病気をどのように捉えればよいのか。正常と病理との間に境界はあるのか。健康とは、あるいは病気が治るとはどのような状態を言うのか。いずれも大きな難しい問ですが、ここではこれらの問題を考え始めるための枠組みについて講師が40分ほど話した後、約1時間に亘って意見交換していただき、懇親会においても継続する予定です。このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしています。
 
会場: カルフール会議室 (定員約20名)
Carrefour

 東京都渋谷区恵比寿4-6-1 恵比寿MFビルB1
電話: 03-3445-5223


参加費 
一般 : 1,500円 (コーヒー/紅茶が付きます)
高校生・大学生: 無料 (飲み物代は別) 

会の終了後、懇親会を予定しています。

参加を希望される方は、希望日懇親会参加の有無を添えて
hide.yakura@orange.fr まで連絡いただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。


これまでの会のまとめは以下のサイトにあります。

第1回(2011年11月)
第2回(2012年4月)









jeudi 24 mai 2012

世界を記述する新しい言葉、そして自然と文化を結ぶ橋

 Ninguen (2000)
Tominaga Atsuya / 冨長敦也 (1961-)


午前中曇っていたが、午後から晴れ渡ってくれた
この朝はデンマークの方とやり取りしたり、日本からのメールに対応したり
資料を読まなければならないので、結構時間がかかる

それとは別に、以前にいただいたメールを読み直している時、発見をする
この世界に大きな変化は起こっていないだろうなどという思い込みがあると、見過ごすことになる
これは結構大きなことだったので周辺を調べる
わたしが知らなかっただけの話なのだが、、

ただ、そう言ってしまうと、すべてがそうなる
わたしとは別に、すべてはそこにあるのだから
あるいは、わたしが気付かないものは存在しないのか
そうかもしれないが、その立場を今は採っていない


午後から近くのカフェでスローターダイクさん(Peter Sloterdijk, 1947-)を読む
調べてみると、もう3年近い時間が経っている
巡り巡ってという印象だ
その本はハイデルベルグの免疫学者ブルーノ・キュースキさん(Bruno Kyewski)に紹介されたもの
丁度、パリにセミナーに来られた時のことである
その日の経過は以下の記事にある


本の原題は、Du mußt dein Leben ändern (2009)
昨年出た仏訳は、Tu dois changer ta vie (2011)
日本ではまだ訳されていないようだ


この世界を変えるのではなく、あなた自身の生活、人生を変えなければならないと言っている
世界の改良ではなく、自己改良を目指しなさいということだろう
今日はイントロを読んだが、彼の中の世界、頭の使い方、言い回しがなかなか馴染まない
30ページほどを3時間かかって読む
印象に残ったところを少しだけ



Ninguen (1999)
Tominaga Atsuya / 冨長敦也 (1961-)


最早太陽のもとには新しいものなどないように見える
しかし、認識の面からいうとあるのだという
つまり、見方を変えるということ、新しい見方を獲得すること
それは、分かっているように見えることに纏わり付いた衣を剥ぐことができるか否か、
これまでと異なる言葉で 「こと」 を記述できるかどうかにかかってくる
精神性とか道徳とか倫理などと言われるものに、全く新しい言葉を与えることができるのか

それを彼は "explicitation" という言葉で説明している
折り畳まれるようにされている "implicite" な状態に対して風呂敷を広げるようにするこの行為
「こと」 を明白にするという営みを表現するのには適切な選択に見える 
この過程がうまく行くと、意表突くような、しかし無視できないような効果が出ると言っている
そして、それこそが太陽のもとの新しいものになるのだろう


それからオーガニズム、社会、文化を包括する知として免疫学の成果を挙げている
おそらく、これがキュースキさんが私にこの本を薦めた理由になるのだろう
スローターダイクさんは免疫システムが世界をよく説明するのだと言いたいようだ
生物学的世界、文化的・社会的・軍事的世界、精神運動の過程

そして、これまで何度も取り上げられている生物学的世界と文化的世界の乖離を指摘している
自然と行動、自然科学と人文科学
この間には直接の移行はない
そこに橋を架ける必要があるのだ
橋の中央を繋ぐためには、教育、訓練、運動が欠かせない
この橋の建設なしに人間になることはできない
この運動を常にし続けなければならないのが、われわれの存在の本質なのかもしれない


この中で 「人間の園」 (le jardin de l'humain) という言葉が紹介されている
物理学者のカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーさん(C F. von Weizsäcker, 1912-2007)の言葉だという
そこでは植物(自然)と芸術が出会い、上に挙げた対立が昇華される
そこに入ると、内的・外的な運動が最高のレベルに達する
Le jardin と聞くと、すぐにエピクロスの園を思い出す
それらが新しい文化を創造する空間、人間に近づく空間であるとすれば、
その建設はすべての人に求められているのかもしれない



mardi 8 mai 2012

クロディーヌ・ティエルスランさん再び、「哲学は科学的でなければなりません」

Pr. Claudine Tiercelin (Collège de France)


今年初めにコレージュ・ド・フランスの 「知の形而上学と哲学」 教授クロディーヌ・ティエルスランさんのインタビュー記事 (Le Point) を紹介した。
クロディーヌ・ティエルスランさんの目指す科学的形而上学 (2012-1-12) 

昨日の散策で入ったプレスで手に取った科学雑誌 La Recherche の5月号に彼女のインタビュー記事が載っていたので早速カフェで読んでみた。前回と重複しない範囲で紹介してみたい。

彼女の言う科学的とは、自然科学の研究者や実験者が持っている精神で研究を進めるもので、誤りに注意しながら実証可能な命題を提出することだという。その過程で科学の声を聴くことが重要だと考えている。

このインタビューでも科学と哲学のどちらが知における優位性を持っているのかは重要ではないと繰り返している。両者は明らかに対象も方法も異なっているからだ。哲学の仕事は言語を用いてできるだけ実体に近い概念を作ることである。そこでは、言語と概念と実体の三者関係に常に注意しながら進めることが不可欠になる。実体に至るためには、物理的な実験だけではなく、非物理的な認知科学の領域の実験をも含めている。さらに、想像できるものと可能性のあるもの、可能性のあるものと実際にあるもの、言葉の違いと概念の違い、概念の違いと実体の違いを混同しないようにすることも強調している。

科学哲学と知の哲学(philosophie de la connaissance)との違いを次のように説明している。科学哲学は、科学の方法、理論と観察との関係、特定の科学の変遷などを扱うのに対して、知の哲学は対象を科学知に限らず、知の概念そのものやその基盤、論理、推論、証明の本質、信じることとが知とされる条件などの問題にも興味を示す。

形而上学をどう定義するのかと聞かれて、彼女はこう答えている。形而上学とは実在についての科学で、存在、自由、時間、心身問題、法則の本質、物理的・心理的因果関係などの問題を扱うものである。つまり、実在の最も深い構造について研究する科学になる。同様に、世界の成り立ちの深い構造を研究する物理学との違いは、物理学者の存在論は必然的に物理主義になるのに対して、形而上学者はこの世界を理解するためにはそれだけでは不十分だと考え、生物学、心理学、社会科学などの多様な学問から存在論を研究する。その背後に、自然は物質からできているのか、あるいは関係やプロセスなのか、アイデンティティを構成する条件とは何か、というような科学者の範囲を超える重要な問題が控えている。

形而上学とは知に関する論理的な営みであり、科学と同じ原理に基づいている。世界の最も根源的な要素を求めている点で、科学と同じ目的を持っている。形而上学者はよく議論すると言われるが、それは学問の基準がないからではなく、見かけに囚われたり、錯覚に陥ることを避けることや目の前のものを虚心坦懐に観ることが難しいからである。この議論も科学精神の下で行わなければならず、科学がすべてを説明すると主張する科学主義や形而上学者が最終決定するという体系に囚われたドグマから自由でなければならない。。形而上学者は実験室には行かずオフィスに留まっているが、椅子に座っているだけではない。ある意味で数学者に近い存在である。






dimanche 6 mai 2012

第3回 「科学から人間を考える」 試みのお知らせ (1)



9月に東京で予定している第3回 「科学から人間を考える」 試みのテーマを 「正常と病理」 とすることにいたしました。

 われわれの人生において避けて通ることのできない病気と関連するテーマになります。

日程、場所などの詳細が決まり次第、この場の他、専用サイト、「パリの哲学的生活」 などに発表する予定です。

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。

よろしくお願いいたします。