lundi 15 novembre 2010
梅原猛編 「脳死は、死ではない。」、そしてこの生の価値
この話題は当時横目で見ていて、少数意見が併記された異例の政府臨調報告になったことを覚えている程度だった。この本には、その少数意見を出した方々が集まり対談した内容と梅原氏の講演、最後に臨調の報告書が添えられている。古本だったので、おまけに当時の新聞切り抜きがいくつか挟まっていた。このお話を読みながら、いろいろな思いが巡っていた。
彼ら少数派はどうしても脳死は人の死とは認められないとし、臓器移植推進派と激しく渡り合った様子が語られている。結論から言うと、この臨調はあくまでも臓器移植を進めるために必要だった儀式ではなかったのかという疑い(よりは確信に近いもの)が梅原氏の中に生まれる。脳死を死として臓器の確保を容易にしようとする動きだったと結論している。その過程で、彼ら少数派は臓器移植とは一体どういうことなのか、死をどのように捉えればよいのかという根本的な、言ってみれば哲学的な問を仕掛けるが、医学の側を含む推進派はそれを無視することが多かった。それは医の側が医学を取り巻く根本的な問題をほとんど考えてこなかったからではではないかと疑っている。この点に関して言えば、医学にはこのような問題を考える能力がないので、医学教育の中に哲学、倫理、その他の全人的な要素を取り込む必要があると主張している人もいたが、全く同感である。
それと同質の出来事を思い出す。それはもう15年ほど前になるだろうか。がんの根治療法の是非について慶応大学の近藤誠氏とがん外科医との間で激しく行われた討論のことである。近藤医師は「患者よ、がんと闘うな」などの著書でもわかるように、がんになった後の根治治療には否定的で、亡くなるまでの間の生活の質を大切にする立場をとっている。同じような考えを持っている医者もいたとは思うが、はっきりとした形で発言したのは彼が最初ではないだろうか。いずれにせよ、根治療法を主張する側の論拠は、がんの治療法は手術と放射線と薬であり、患者を見つけたらがんを徹底的にやつけるのが医者の務めだというもので、あくまでも自らの専門の枠内での論理に終始していた。がん治療をより広いコンテクストに入れて考えることができず、自らの考えの中にないものは拒否するだけの苦しい議論になっていた。
脳死の場合もこれと同様に、自らの領域に閉じ籠り、その中の考えを当然のものとして受け止め、それを理解できないのは科学的でないとして退けるという態度に徹していた。自らの営みから出て、自らの頭で考えるという哲学的態度が欠如している証左だろう。これは医学の領域に限らず、あらゆるところに見られる現象ではないだろうか。哲学が可能になる条件として、個人の自立・自律が必要になる。これができていないとどうしても身内の論理に無批判に従うことになり、しかもそのことにさえ気付かなくなる。ルドヴィク・フレックの言う Denkkollective (ある考え方を共有した研究者の集団で、しばしば集団が内に閉じている) の中に安住し、そのために過ちを犯す可能性が出てくる。これは常に注意しておかなければならない点だろう。
日本の審議会は議論をするための場ではなく、指名を受けた専門家が全会一致の了承をするためにありがたく出向くところになっている(可能性がある)。ある脳死臨調委員は少数意見を述べるのに勇気を要したと書いている。日本の一級のインテリとされる方の発言である。本当に自立・自律が問われているようだ。
ここで何度も繰り返しているが、哲学は役に立つのかという問をいつまでも出している段階ではないだろう。それはわれわれの生活に必要不可欠なもので、多くの方がそれを実践しなければならないはずのものである。その欠如が多くの問題を生み出しているように私には見える。脳死の議論を読みながら、ここにもその一例があるのを見る思いであった。
ところで、肝心の梅原氏の主張で気になるところがあった。それは、脳死は人の死ではないとしながらも、臓器移植によってしか助からない人がいて、自らの意志で臓器提供をする人が現れた場合、それを認めると考えている。あれほど強硬に主張した前段を覆して、死 んでいない人からの臓器提供を認めることになる。この本には五木寛之氏と梅原氏との対談が載っているが、その中で五木氏は梅原氏の態度を批判しているように見える。五木氏の態度は、人間は結局のところ病気には勝てないので、老いを認め、病を認め、死を迎え入れる思想が必要になると考えている。一つの病気がなくなっても他の病気が出てきて、人間は常に病気と共にあることになる。それぞれの病気の消長はあるが、病気の総数は変わらないという説もある。五木氏はその事実を受け入れた哲学が必要になると考えている。当然移植なども拒否する立場だろう。五木氏が悲観主義と言うこちらの考えの方が矛盾が少ないように見える。生と死を巡る永遠の哲学に向かわなければならないのだろう。この生に横たわる多くの基本的な問について真に哲学することなく終わるのは、生の価値を十全に活かし切っていないように見える。
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