samedi 19 décembre 2009

「事業仕分け」 に想う: 今、科学者が哲学者に還る時



最近、「事業仕分け」と言われる作業が話題を呼んでいる。科学の予算も削減が言い渡されているようで、いくつかの学会からこのことについての発言を求めるメールが届いた。これまでは政権が変わってもわれわれの生活には直接の影響はないだろうなどと高を括っていたが、政治こそわれわれの生活を握っていることを思い知らされることになった。今回の少々慌てて見えるメールを読みながら、思いが巡っていた。

まず、科学と言えどもあくまでも社会の中の営みであるという当たり前のことに気付かされたことだ。「と言えども」と書いたのは、科学者の中のどこかに、社会とのつながりとは別に真理の探究に打ち込むのが仕事であるという意識があるのではないかと想像したからだ。それは自らの経験からも言えるからである。最近では説明責任を果たさなければならないとのことで普及活動などはやられているが、自らの発想ではなく社会からの圧力で始まったはずである。したがって、深いところで社会の中の存在という意識には至っていないのではないだろうか。

これまではどこか見えないところで誰かが何とかしてくれていたと想像される過程が、今回白日のもとに晒されたことになる。このような問題についての専門家でもないが、科学の中で生活してきた者として感想を述べるのは義務のように感じて書いている。率直な印象を言わせていただければ、今回のことは長い目で見ると科学にとってよかったのではないかということだ。こういう当然の外圧でもなければ、科学者が科学を取り巻く問題、換言すれば自らの社会における位置について考えることはなかったと想像されるからだ。

このような貴重な機会に、単に予算削減について抗議するだけだったり、それぞれの学会の利益保全的な発想しかできないとすると、問題の本質的解決にはならないような気がする。これを機に、科学者がそもそも科学とはどういう営みなのか、それが人類にとってどのような点で有効なのか、なぜそれがこの社会に必須な営みなのか、それを理解してもらうために科学者は何をしなければならないのか、などの根本的な議論が必要になるだろう。つまり、社会から科学など必要ないと言われた時に何と答えるのかという問題になる。科学者が自らを、そして科学を哲学せざるを得ない状況にあると言えるだろう。

確かに直近の問題解決は重要ではあるが、それ以上にこの問題の根本に関わる点についてそれぞれの科学者が考えておくことが不可欠になるだろう。科学者がその母である哲学者に還らなければならない時が今訪れている。


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