mardi 29 décembre 2009

Reinventing the relationship between science and the public



In his four consecutive articles in the News section (1-4), David Cyranoski timely covered recent actions by the working groups of the Japanese Government Revitalizing Unit to cut the budgets of almost all projects including scientific ones. This is indeed a serious situation for the Japanese science. However, having read the article published online 26 November 2009 (3), I equally noticed serious problems in the recognition of science on the part of scientists. In this article, Nobel prize-winning Susumu Tonegawa is quoted as saying in the symposium held at the University of Tokyo: “People don’t realize how the fruits of basic science are all around them, in their [Global Positioning Systems], their vaccines, their mobile phones”, as if the lack of understanding were the fault of people. Furthermore, another Nobelist Ryoji Noyori straightforwardly demanded “more money, not less,” for the funding of graduate students in science and the investment in university education. As Cyranoski rightly depicted this situation, “much of the discussion lamented the Japanese public’s lack of appreciation for the value of basic science.” However, there seems to be no hint in the comments from two Nobel laureates that they have reflected upon what science, not science-technology, is really about and why science is indispensable to our daily activities, and above all no intention to educate people by sharing their interpretations of the deep meaning of science with them. Without it, it is hard to obtain a public support that is critical to the future of science and more importantly to our society.

Carl Woese, for example, rightly pointed out in his essay (5) that “a society that allows biology to slip into the role of changing the living world without trying to understand it is a danger to itself.” We, scientists and philosophers of sciences, have not done enough efforts to convince the public of the importance of achieving a society build upon scientific understandings. As Leo Esaki said in the same symposium that “this is an opportunity for us to explain to everybody the significance of science”(3), we have to prudently make a step forward to this direction. In the long run, trying to reinvent novel interactions and understandings between scientists and the public, rather than simply lamenting a lack of understanding or protesting against the government actions, will contribute to the solid future not only for science but also for our society. One may find a hint in the recent endeavours in Spain (6) that mobilized every scientific branch to influence political decisions in the end.


1. Cyranoski, D. “Hope for Japan’s key projects” Nature 462, 835, 2009 (15 December 2009)
http://www.nature.com/news/2009/091215/full/462835a.html

2. Cyranoski, D. “Japan budget threat sparks backlash” Nature 462, 557, 2009 (1 December 2009)
http://www.nature.com/news/2009/091201/full/462557a.html

3. Cyranoski, D. “Japanese scientists rally against government cuts” (26 November 2009)
http://www.nature.com/news/2009/091126/full/news.2009.1108.html

4. Cyranoski, D. “Japanese science faces deep cuts” Nature 462, 258-259, 2009 (19 November 2009)
http://www.nature.com/news/2009/091118/full/462258a.html

5. Woese, C. “A new biology for a new century” Microbiol. Mol. Biol. Rev. 68:173-186, 2004

6. Guinovart, J.J. “Mind the gap: Bringing the scientists and society together. Cell 137:793-795, 2009



lundi 28 décembre 2009

「ふたつの文化」 から50年目の提言



理系と文系の知の乖離を指摘したC.P. スノーの「ふたつの文化(The Two Cultures)」(1) が出版されてから、今年で50年を迎えた。残念ながらそこで指摘されている両者の乖離は改善されるどころか、むしろ悪化しているかに見える。このような状況下、年末には新政権が行った事業仕分けにより科学技術予算も削減され、それに対する科学者側からの反応も目にすることになった。50年を隔てたふたつの出来事の間に、ある種の繋がりを見たのは私だけだろうか。生命科学分野でのキャリアを終え、2年余の間科学を遠くから見てきた者にとって、未熟ながらも科学という人間の営みについて発言することはひとつの義務のように感じられた。

この問題を意識的に考え始めたのは、2008年夏、日本学術会議科学者委員会学術体制分科会の「我が国の未来を創る基礎研究の支援充実を目指して」(2008年8月1日)という提言に接した時からである。そこに書かれてある基礎研究の重要性とその推進のための提言には異論はなかったが、「科学とは『知ること』、すなわち人間の知的創造活動の総体」という一節に触れた時、違和感が襲っていた。科学という営みを構成するのは、第一に対象を観察すること、第二には観察された事実を整理し(=知り)、第三にその事実に論理的な説明を加え(=原因を探し)、そしてその説明を基に新たな状況を予測することで、知ることは科学の一部を構成するに過ぎないと考えていたからである。その後、アメリカにおいても科学を知ることに限定することへの懸念が表明されていること(2)を知り、科学についての本質的な認識が一般のレベルのみならず科学者の間にも欠けている可能性に気付くことになった。

今回の事業仕分け後に示されたノーベル賞学者を含む科学者からの反応には、科学に金が出るのは当然であり、それを削減するのはけしからんというニュアンスが溢れていたが、科学の本質的な意味についての言及は見られなかった。科学技術に偏重し、科学に対する認識が失われた社会がどのようなものになるのかは多くの歴史が教えている。今科学の側が成すべきことは、科学とは一体どのような営みであり、それがわれわれの生活になぜ不可欠なのかを思索し、その認識をできるだけ広く科学の外に共有してもらう新たな活動を始めることではないだろうか。

ここで「ふたつの文化」で提起された問をもとに、一つの方向性を考えてみたい。50年前、スノーはこのような問題提起をした。すなわち、自然科学者に対しては、「シェークスピアを読んだことがありますか?」という問を出し、人文科学者には「熱力学の第二法則を言えますか?」と問いかけている。ここではそれぞれの領域の知識の欠落が問題にされている。しかし、この半世紀を振り返る時、また指数関数的に尖鋭化が進むと予想されるこれからの科学を考える時、このような問題意識で豊かな社会の構築のために不可欠となる文理の統合は可能だろうか。

21世紀に問われるべきは、文理におけるそれぞれの知識ではなく、自然科学や人文科学、芸術の持つ世界の捉え方の特徴について相互に教育・理解し合うことではないだろうか。自然科学者は人文科学に心を開き、例えば自らの科学活動に深みを加えるために、広い枠組みで物事を捉えようとする哲学的視点を導入し、一般の人に向けて科学の成果だけではなく、自然科学の持つ独特な世界の捉え方(科学精神)の日常生活における重要性を理解してもらう試みを始めるべきだろう。

一方、人文科学の専門家は自らの領域に閉じこもることなく科学者との対話に積極的に参加し、これまでの蓄積を紹介すると同時に科学の領域に見られる問題を指摘すること、さらに一般の方は、理性的でより豊かな生活を送るために科学精神を理解し、日常に取り入れることが重要になる。

異なる領域の人が意識的に混じり合いながら科学という営みを哲学し、そこから生まれた成果を一般の方と広く共有する営みをやり続けることこそ、長い目で見た時に科学を生かし、ひいてはわれわれの生活に深みと豊かさを齎すことになるのではないだろうか。現実的にはスペインで行われたように(3)、科学に関わるすべての人が参加した討論の場を新らたに設け、そこで出た結論を社会に働きかけるだけではなく、選挙に際して政党に迫るところまでもって行かなければ真に科学が生かされることはないように見える。


文献

(1) Snow, C.P. The two cultures. Rede Lecture, 1959. In "The two cultures and a second look", Cambridge University Press (1987)
(2) Alberts, B. Redefining science education. Science 323, 437 (2009)
(3) Guinovart, J.J. Mind the gap: Bringing scientists and society together. Cell 137, 793 (2009)



samedi 26 décembre 2009

一口に科学者と言っても


先日、日本の学会で話した内容について何人かの方にコメントを求めた。その中のお一人、もう30年来の友人になる K 氏がコメントを送ってくれた。感謝。彼によると、科学者に哲学的心を求める考え方には賛成だが、身近の教授連中と話していると現実的には難しいところがあるとして、ピーター・メダワーのエッセイの一節が添えられていた。

"There is no such thing as a Scientific Mind. Scientists are people of very dissimilar temperaments doing different things in very different ways. Among scientist are collectors and compulsive tidiers-up; many are detectives by temperament and many are explorers; some are artists and others artisans. There are poets-scientists and philosopher-scientists and even a few mystics. …"
Peter Medawar: Hypothesis and Imagination

メダワーによると、科学者と言っても一種類ではなく、その心は多様である。例えば、多くが探究心を持っており、コレクターに始まり、哲学者、詩人、そして最後には神秘主義の傾向を持つ者さえ少ないがいる、と書かれている。確かに、現実を冷静に分析している。実際にその中にいる人間は、意識するか否かに関わらず、どれかを選択して歩んでいるはずである。

振り返ると、私の場合にはコレクターとは言えないが、見つかってきた一つひとつの事実をさらに深めようとする試みを続けてきたと言える。それで満足しながらやっていたようだ。しかし、その営みが終わりに近づくにつれ、何とも言えない不全感が訪れていた。その原因を探ると、何かを理解したという感覚がほとんどないことに行き着いた。そのことに気付いた時、全体を理解しようとする哲学の必要性に思い当たったのだ。現在の歩みは、科学全体の営みを見直す試みだとも言えるだろう。この試みが終わる頃、どのような感慨を持っているのだろうか。

vendredi 25 décembre 2009

「学術の動向」を読み、科学がやるべきことを想う


「学術の動向」2009年1月号の新春座談会を読む。タイトルは、 「社会のための科学(Science for Society)」 と 「科学のための科学(Science for Science)」で、ネットに公開されている(PDF)。このタイトルを見て、「科学のための科学」の意義について新たな視点が示されているのかと思って読み始めたが、「社会のための科学」が圧倒しており、「科学のための科学」についての思索の跡はほとんど見られなかった。科学は貢献しなければならないと考えている方が多いようだが、どのような貢献かについては暗黙の了解があり、それは科学の外にいる一般の方と変わらないような印象を持った。それは次のエピソードを読んだ時である。

テレビ・キャスターがノーベル賞学者にその研究は社会にどう貢献するのかと聞いたのを見て、そう問うのは「社会のための科学」であり、それ以外に「科学のための科学」もあることをキャスターも認識してほしいと語っている件である。一般の方の科学に対する理解不足を嘆くのは、最近あった事業仕分け後に見られた科学者の反応とも共通するところがある。その前に科学の側が考えるべきことがあるのではないだろうか。例えば、「科学のための科学」をどのように捉えるのか。貢献すると言う時、それは何に対してなのか。科学的な思考を教える科学では社会に貢献したことにならないのか。これらの「科学のための科学」の存在意義を思索した上で、それを社会に訴えかけること。これこそ、科学の側がいくらやっても充分ということはないだろう。その認識が科学の側に不足しているように感じながら、新春のお話を読んでいた。

jeudi 24 décembre 2009

専門誌で思い出すこと


アメリカ生活3年目くらいからのことではないかと思う。結果が思うように出てくれないので、完全に待ちに入っていた時期がある。この1-2年間、何を思ったのか New England Journal of Medicine、Lancet、Science、それにイギリス人のボスの部屋で見かけた Daedalus (American Academy of Arts & Sciences の機関誌) を自分で取ることに決め、研究テーマとは関係ない記事や論文を読んでいた。今振り返ってみると、この態度はものを遠くから広く見ようとするもので、ある意味では哲学的な視線を楽しんでいたことになる。ゼロから始めなければ駄目だとでも思っていたのだろうか。現在の歩みにあまり違和感を感じないのは、このような時間とも繋がっているような気もしてくる。昨日の記事が思い出させてくれた人生の一断面になる。

mercredi 23 décembre 2009

哲学的エッセイが専門誌に広まっている?


今日は研究所で関連する科学雑誌の今年1年分を眺める。予想以上に興味を引く論文が目に入る。雑誌によっては、仮説や哲学、あるいは科学を少し引いた視点から見た論文(エッセイ)を載せるようになっている。NatureやScienceでは昔から行われているが、その傾向がしばらく見ていなかったCellなどにも広がっている。科学の結果だけではなく科学という営みそのものに目をやることは、自らの活動に批判的な目を向けることになる。この視線こそまさに哲学の視線で、これから益々哲学的な営みの重要性が増してくるだろう。科学の分野に哲学者が発言しなければならない所以でもある。そのことにより、科学がより奥行きを持ってくる予感があり、望ましい傾向だと思いながら読んでいた。

mardi 22 décembre 2009

理解する研究


理論免疫学者メルヴィン・コーン(Melvin Cohn)博士の20年前のエッセイを読む。まず目につくのは、免疫系を理論化する場合、常に進化の光を当てていることだろう。当然と言えば当然だが、徹底している。それから実験により事実の断片を集めるのではなく、全体を理解したいという願望、さらに言うと強い意志を感じる。ある世界を見る時にひとつの原理のような枠組みを何とかして掴みたいという意志である。そこに向けて正確で妥協しない強靭な思考を心がけている様子がよくわかる。そのため上位の論理に適合しない思考には厳しい言葉を吐いている。時にユーモアも交えながら。そして、その枠組みがない免疫学の何と無駄が多いことかと嘆き、彼の論理ではあり得ないイェルネ博士によるイディオタイプ・ネットワーク説に基づいて発表された数千の論文を見るだけで十分だろうとしている。

また、現代の科学では知の断片の収集が過大な評価を受け、理論的な枠組みを提供する仕事は過小評価、あるいは無視されている。この事実に対する彼の深い怒りのようなものが感じられる。本当の発見は両者の合作のはずだからだ。この点には全面的に同意する。そして、あるものの全体を理解したいという思いが強くなっている私は、コーン博士を遥か前を行くランナーのような目で見ていた。以下に、彼の言葉を。

"This leads me to generalize my point by asking, What are we teaching in these institutions, which dominate worldwide the thinking of the immunological community? Not the search for principles of generality; the institutional environment does not appreciate such effort, much less reward it. Education rather seems to fix forever the direction of students' efforts so that their sole goal is to demonstrate that what they have been taught is scripture even when it is popery. It is little wonder that we have come to prize purely technical over conceptual achievement in spite of their interdependence, in par this is due to a loss of asceticism, in part to a lack of training and confidence in our ability to evaluate Socratic thinking, in part to the so-called practical values imposed by our promotion, grant, and prize awarding committees. The tragedy is that we no longer worship understanding as the goal of science. Having totally lost respect for rational skepticism, we allow quantity rather than quality, charisma rather than scholarship, and the desire to be accepted rather than the need to question, to influence and, in the end, determine our judgment."

Forward to Rodney E. Langman's "The Immune System"
"Clippings from one immunologist's journal" (1989)

lundi 21 décembre 2009

梅原猛編 「脳死は、死ではない。」 を読む



梅原猛編 「脳死は、死ではない。」 (1992年)

先日、日本の古本屋で仕入れたこの本を週末に読む。脳死の問題は当時横目で見ていて、少数意見が併記された異例の政府臨調報告になったことを覚えている程度だった。この本にはその少数意見を出した方々が集まり対談した内容と梅原氏の講演、最後に臨調の報告書が添えられている。おまけに当時の新聞切り抜きがいくつか挟まっていた。このお話を聞きながらいろいろな思いが巡っていた。

彼ら少数派はどうしても脳死は人の死とは認められないとし、臓器移植推進派と激しく渡り合った様子が語られている。結論から言うと、この臨調はあくまでも臓器移植を進めるために必要だった儀式ではなかったのかという疑い(よりは確信に近いもの)だろう。脳死を死として臓器の確保を容易にしようとする動きだったと結論している。その過程で、彼ら少数派は臓器移植とは一体どういうことなのか、死をどのように捉えればよいのかという根本的な、言ってみれば哲学的な問を仕掛けるが、医学の側を含む推進派はそれを無視することが多かったようだ。それは医の側が医学を取り巻く根本的な問題をほとんど考えてこなかったためではないかと疑っている。この点に関して言えば、医学にはこのような問題を考える能力がないので、医学教育の中に哲学、倫理、その他の全人的な要素を取り込む必要があると主張している人もいた。全く同感である。

それと同質の出来事を思い出す。それはもう15年ほど前になるだろうか、がんの根治療法の是非について慶応大学の近藤誠氏とがん外科医との間で激しく行われた討論のことである。近藤医師は 「患者よ、がんと闘うな」 などの著書でもわかるように、がんになった後の根治治療には否定的で、亡くなるまでの間の生活の質を大切にする立場にある。同じような考えを持っている医者もいたとは思うが、はっきりとした形で発言したのは彼が最初ではないだろうか。いずれにせよ、根治療法を主張する側の論拠は、がんの治療法は手術と放射線と薬であり、患者を見つけたらがんを徹底的にやつけるのが医者の務めだというもので、あくまでも自らの専門の枠内での論理に終始していた。がん治療をより広いコンテクストに入れて考えることができず、自らの考えの中にないものは拒否するだけの苦しい議論になっていた。最近あったばかりの事業仕分けに対するノーベル賞学者も含む科学者の反応にも科学の意味するところについての語りかけが見られず、科学の有用性を理解できない方がおかしいという空気が感じられた。その意味ではこれも同じ範疇に入るだろう。

脳死の場合もこれらと同様に、自らの領域に閉じこもり、その中の考えを当然のものとして受け止め、それを理解できないのは科学的でないとして退けるという態度に徹していたようだ。自らの営みから出て、自らの頭で考えるという哲学的態度が欠如している証左だろう。これは医学の領域に限らず、あらゆる所に見られる現象ではないだろうか。哲学が可能になる条件として、個人の自立・自律が必要になる。これができていないと、どうしても身内の論理に無批判に従うことになり、しかもそのことにさえ気付かなくなる。ルドヴィク・フレックの言う Denkkollectiv (ある考え方を共有した研究者の集団で、しばしば集団が閉じている) の中に安住し、そのために過ちを犯す可能性が出てくる。これは常に注意しておかなければならない点だろう。

日本の審議会は議論をするための場ではなく、指名を受けた専門家が全会一致の了承をするためにありがたく出向くところになっている可能性がある。脳死臨調の委員の方が少数意見を述べるのに勇気を要したと書いている。日本の一級のインテリとされる方の発言である。本当に自立・自律が問われているようだ。

最早、哲学は役に立つのかという問をいつまでも出している段階ではなさそうだ。それはわれわれの生活に必要不可欠なもので、多くの方がそれを実践しなければならないはずのものである。その欠如が多くの問題を生み出しているように私には見える。脳死の議論を読みながら、ここにもその一例があるのを見る思いであった。

ところで、肝心の梅原氏の主張で気になるところがあった。それは、脳死は人の死ではないとしながらも、臓器移植によってしか助からない人がいて、自らの意志で臓器提供をする人が現れた場合、それを認めると考えている。あれほど強硬に主張した前段を覆して、死んでいない人からの臓器提供を認めることになる。この本には五木寛之氏と梅原氏との対談が載っているが、この中で五木氏は梅原氏の態度を批判しているように見える。彼の態度は、人間は結局のところ病気には勝てないので、老いを認め、病を認め、死を迎え入れる思想が必要になると考えている。一つの病気がなくなっても他の病気が出てきて、人間は常に病気とともにある。確かに、病気の総数は変わらないという説もある。彼はその事実を受け入れた哲学が必要になると考えている。当然移植なども拒否する立場だろう。五木氏が悲観主義と言うこちらの考えの方が矛盾が少ないように見える。


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今年の6月、1997年に成立した臓器の移植に関する法律が改正された。改正内容は、年齢を問わず脳死を一律に人の死とし、本人の書面による意思表示の義務づけをやめて、本人の拒否がない限り家族の同意で提供できるようにするというもので、当初の制限が大幅に緩和され、移植がやりやすくなっている。脳死を人の死とする考え方がどれだけ受け入れられ、この医療が盛んになるのか、注意深く見守りたい。


samedi 19 décembre 2009

「事業仕分け」 に想う: 今、科学者が哲学者に還る時



最近、「事業仕分け」と言われる作業が話題を呼んでいる。科学の予算も削減が言い渡されているようで、いくつかの学会からこのことについての発言を求めるメールが届いた。これまでは政権が変わってもわれわれの生活には直接の影響はないだろうなどと高を括っていたが、政治こそわれわれの生活を握っていることを思い知らされることになった。今回の少々慌てて見えるメールを読みながら、思いが巡っていた。

まず、科学と言えどもあくまでも社会の中の営みであるという当たり前のことに気付かされたことだ。「と言えども」と書いたのは、科学者の中のどこかに、社会とのつながりとは別に真理の探究に打ち込むのが仕事であるという意識があるのではないかと想像したからだ。それは自らの経験からも言えるからである。最近では説明責任を果たさなければならないとのことで普及活動などはやられているが、自らの発想ではなく社会からの圧力で始まったはずである。したがって、深いところで社会の中の存在という意識には至っていないのではないだろうか。

これまではどこか見えないところで誰かが何とかしてくれていたと想像される過程が、今回白日のもとに晒されたことになる。このような問題についての専門家でもないが、科学の中で生活してきた者として感想を述べるのは義務のように感じて書いている。率直な印象を言わせていただければ、今回のことは長い目で見ると科学にとってよかったのではないかということだ。こういう当然の外圧でもなければ、科学者が科学を取り巻く問題、換言すれば自らの社会における位置について考えることはなかったと想像されるからだ。

このような貴重な機会に、単に予算削減について抗議するだけだったり、それぞれの学会の利益保全的な発想しかできないとすると、問題の本質的解決にはならないような気がする。これを機に、科学者がそもそも科学とはどういう営みなのか、それが人類にとってどのような点で有効なのか、なぜそれがこの社会に必須な営みなのか、それを理解してもらうために科学者は何をしなければならないのか、などの根本的な議論が必要になるだろう。つまり、社会から科学など必要ないと言われた時に何と答えるのかという問題になる。科学者が自らを、そして科学を哲学せざるを得ない状況にあると言えるだろう。

確かに直近の問題解決は重要ではあるが、それ以上にこの問題の根本に関わる点についてそれぞれの科学者が考えておくことが不可欠になるだろう。科学者がその母である哲学者に還らなければならない時が今訪れている。


vendredi 18 décembre 2009

これからのプロジェをぼんやりと


年末を迎え、これまでの歩みを顧みながら、これからの計画を探る心境になっている。大きなテーマとしては、マスター2年目で検討した免疫についてさらに深めることができないかと考えている。その中にはいくつかサブテーマのようなものがぼんやりと見えている。その時に考慮に入れたいのは、これまでの蓄積をどこかに取り入れようとすることだろう。このテーマは科学の中のお話になるが、それと並行して今回免疫学会で取り上げたような科学そのものを対象にした思索も続けていきたい。

この2年間の営みは、あくまでもどこかに向かう入口のような位置にあり、それをどのように発展させていくのかがこれからの時間の課題になるのだろう。始まる前には対象をできるだけ広くしておきたい。時が経つと現実に戻り、自然にどこかに収斂していくことはすでに経験済みなので、初めだけでも夢の要素を含んだままにしておきたいというところだろうか。

dimanche 13 décembre 2009

「哲学なき科学、あるいは科学は哲学から何を学ぶことができるか」


「意心帰」 安田侃
 (2006年)
"Shape of mind" by Kan Yasuda (1945-)


12月2日、大阪で開かれた第39回日本免疫学会の関連分野セミナーとして 「哲学なき科学、あるいは科学は哲学から何を学ぶことができるか」 (Science without philosophy, or what science can benefit from philosophy) と題したお話をした。その後、内容についての問い合わせがあったので、この機会にその内容を公表することにした。内容は初歩的なものだが、これを契機に意見交換の機会が増えるとすればこれに勝る悦びはない。PDFのダウンロードはこちらからお願いいたします。