« Saint Paul » par Etienne Parrocel (v. 1740)
先月ポーランドのクラクフに1週間ほど滞在した。その町のショッピングモールにあった書店で久しぶりに Le Point を手に取った。この雑誌の存在を知ったのは4年半ほど前に仏検を受ける前に寄った本屋さんでのこと。読書欄や思想・哲学欄など、全体の構成がわたしの好みに合ったのだろう。それ以来、折に触れて読むようになり、謂わば Le Point という窓からフランスを眺めていたことになる。この経験がわたしを知らない間に変えていたのではないかと思えるくらい大きな影響があった。
ところで、手に取った Le Point の
Idées 欄にこの方が登場し ていた。キリスト教徒を虐殺したユダヤ教徒から教会を建てる闘士への変身。昨年6月28日から今年の6月29日までを 「聖パウロの年」 として祝うことにした、と2年前にベネディクト(ブノワ)16世が宣言したという。そして、彼に宿る3つのものを見た時、強く反応していた。
1) une énergie sans mesure (過剰なエネルギー)
2) un génie militant hors du commun (並はずれた戦闘的天才)
3) une flamme mystique dont il existe peu d'exemples (例を見ない神秘主義的煌めき)
一体どういう人物なのか。どんなことをやった人なのか。一気に興味が膨らんでいた。
パウロ Paul de Tarse (? à Tarse – v. 65 à Rome) 文化交わる現在のトルコに当たるタルススに生まれ、Paul de Tarse (タルススのパウロ) と呼ばれる。ローマ化したユダヤ教徒の家に生まれ、ヘブライ語名は Saül (サウロ)で、ラテン語名が Paul となる。生後8日で割礼し、ギリシャ語とヘブライ語を話し、戒律を厳しく守るよう教えを受け、エルサレムでは
ガマリエルのもとで勉強もしている。二十歳のサウロは
モーセ五書 (Torah) をよく理解する研究者としてのユダヤ教徒であった。
古代多神教と生まれつつあったキリスト教との間の架け橋的存在であったことも、キリスト教における主要人物の一人で、初期の布教、イエスの教えの解釈に多大な貢献をしたこともすでにわかっている。その彼が今なぜ興味を持たれているのだろうか。19世紀がそうであったように、21世紀の政治的状況が関係しているのかも知れない。その辺りを知るために彼の一生を見てみたい。
自らを神の子と名乗っていた若きサウロは、イエスの弟子たち一派を悪意を持って見ていた。そして、最大の暴力を持って彼らと対することになる。教会を破壊し、家々を襲っては住人を牢獄に投げ込んだ。さらに、キリスト教徒に迫害を加えるべくダマスカス (Damas) を目指し、彼らを引き連れてエルサレムに向かう途上、事件が起こる。光がさし、「サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というイエスの言葉を聞く。それから3日間眼が見えなくなるが、奇跡的に視力を回復したのはダマスカスのシナゴーグでイエスこそ神の子であると説教した時である。
この過激にして急激な新しい信仰への回心、完全なる豹変 (retournement du tout au tout) こそ、パウロを特徴づけるものだった。それからはすべてが入れ替わる。ユダヤ教徒がキリストの弟子に。迫害が伝道へ。守っていた戒律は、割礼であれ、安息日 (shabbat) であれ、食事の戒律であれ、すべて廃止へ。ユダヤ的なるものをすべて廃棄し、イエスこそすべての規準になった。
この完全なる回心を伝えるため、彼は稀に見るエネルギーを傾けることになる。地中海沿岸を三度に渡り踏破し、そこで教会を建て、共同体を組織し、集団の士気を高め、そこを離れるものを叱咤した。演説はうまいとは言えなかったが、その情熱に支えられた信念で持ちこたえた。怒りっぽく、権威主義的で情熱家であった彼は、生まれながら組織を作るのが上手かった。
推定45歳から49歳にかけての一度目の旅
推定50歳から52歳にかけての二度目の旅
そして、推定53歳から58歳にかけての三度目の旅
これでキリスト教が飛躍を遂げることになる。それ以来、彼の以前に人間を分けていたすべての違いは時代遅れとされ、キリストの中に人間の規範を見るようになる。そもそも "catholique" とは、古代ギリシャ語では "selon le tout" すなわち "universel" を意味するという。異教徒の伝道師パウロは、ユダヤ教の世界と新しい信仰との関係を体系的に壊していく。苦労を重ねた後、ネロによるキリスト教徒迫害の時に断頭されている。
それ以来、西洋史の流れの背後で彼が新らしい姿で影絵のように現れることになる。その理由はいろいろあるだろうが、一つには彼が書いたものが少なく、教義 のような形でも体系立っても書かれていないことがある。さらに、言い回しが矛盾していたり、論理的につながらなかったりしているため、その解釈が自由にな され、多様な人物像が出来上がることになった。事実、カトリックの思想家、
アウグスティヌス (saint Augustin ; 354 - 430)、
ジャック・ベニーニュ・ボシュエ (Jacques-Bénigne Bossuet ; 1627 - 1704)、
パスカル (Blaise Pascal ; 1623 - 1662) のみならず、プロテスタントの
マルティン・ルター (Martin Luther ; 1483 - 1546) や
ジャン・カルヴァン (Jean Calvin ; 1509 - 1564) などがパウロを描いている。さらに予想もされなかったことだが、19世紀になり社会の変革を期待するすべての作家がそれぞれの聖パウロ像を作るようになった。
彼に興味を持って書いている人には、19世紀では
サン・シモン (Claude Henri de Rouvroy de Saint-Simon ; 1760 - 1825)、
オーギュスト・コント (Auguste Comte ; 1798 - 1857)、エドガー・キネ (
Edgar Quinet ; 1803 - 1875)、
ヴィクトル・ユーゴ (Victor Hugo ; 1802 - 1885)、ピエール・ルルー (
Pierre Leroux ; 1797 - 1871) などの大物がいる。しかし、注意深く読んでいる人の中には彼を賛美するだけではなく警告を発する者もいる。例えば、
エルネスト・ルナン (Ernest Renan ; 1823 - 1892) は彼のことを 「文明の最も危険な敵の一人」 とまで言い、
ニーチェ (Friedrich Nietzsche ; 1844 - 1900) も 「憎しみの論理の天才」 と規定している。
ニーチェが言うように、彼は歴史を体系的に改竄することに成功した。キリストの前に存在したすべてのものは、掃き捨てられ修正された。それ以来、過去も未来も新しい歴史の歩みに沿って考えられるようになる。彼は過去を一掃するという恐ろしい装置を創造したのだ。ユダヤ教の過去も消え去るものとされたが、その論理が単にユダヤの教義だけではなく、その肉体の排除をも可能にすることにはならなかったのだろうか。1992年にスタニスラス・ブルトン (
Stanislas Breton ; 1912 - 2005) は、パウロ主義 paulinisme がアウシュヴィッツに絡んでいたと躊躇することなく指摘した。
しかし、彼は今でも多くの人を魅了し続けている。20世紀においても
アラン・バディウ (Alain Badiou ; 1937 - )、
ジョルジョ・アガンベン (Giorgio Agamben ; 1942 - )、
スラヴォイ・ジジェク (Slavoj Žižek ; 1949 - ) などの仕事の中に生きている。
革命の英雄のモデル、政治装置の確立者、普遍の発明者など複雑で多面的な要素を持つ聖パウロ。これから先、どのような新たな接触が生まれるのか注意していきたい。