jeudi 21 mai 2009

フランク・リーヴィスの現代的問いかけ


Frank Raymond Leavis


今年はC.P. Snow の名著 "The Two Cultures" の出版50周年に当たり、Nature誌が特集を組んでおり、マーティン・ケンプ (Martin Kemp) というオックスフォード大学美術史名誉教授が "Dissecting The Two Cultures" と題するエッセイでその現代的な意味を論じている。その中で、この方の存在を初めて知ることになった。

Frank Raymond Leavis (14 July 1895 - 14 April 1978)

スノーが 「二つの文化」 を出した後にもの凄い反響があったことは、その4年後に書かれた "A second look" の中で触れていたが、このような辛辣な批判がされていたことは今回初めて知った。その代表格がフランク・リーヴィスだったのだ。

スノーは物理の研究者として出発したが、問題が起こり途中から作家に転身し成功を収める。彼には政治的な上昇志向 (political climber) があり、大学の中枢を歩み、1964-1966年には男爵として技術大臣 (Minister of Techonology) の補佐官を務めた。また、ハロルド・ウィルソン首相が1963年に出した科学技術に対する政策の主要な立案者でもあった。そのためだろうか、応用科学の重要性を説き、先進国と発展途上国とのギャップに対しても敏感であった。

エッセイの著者ケンプ氏は、学生時代にスノーに論争を仕掛けたリーヴスに会っている。すでに英文学の伝説的存在で、舌鋒鋭い批評家でもあった。世界的な名声を手に入れてはいたが、体制の中で活躍するスノーとは対照的に、大学の中ではアウトサイダーに徹していた。1962年、彼のダウニング・カレッジにおける30年に渡る活動を記念したリッチモンド講演 (Richmond Lecture) をする。その中で、「悪意に富む人身攻撃 (ad hominem attack)」 とも言われる矛先がスノーに向かったのだ。

彼はこう言い放つ。「彼(スノー)は小説家として存在もしないし、その兆しさえない。小説とは何かさえ知らないだろう。・・・彼が提案した世界の問題について考えるだけの能力があるとするのは馬鹿げている」。文学批評家の判断は人間が生存する状況 (life) に関わるもので、偉大な文学は人間的な価値を真に守るものである、とリーヴィスは考えていた。彼の立場は、苦しみの中での道徳的な無知に対して物理科学は癒しをもたらさないが、倫理はその無知に対する癒しを与えてくれると考えていた17世紀のパスカルに通じるものであった。

リーヴスにとっての科学は人間的な価値を奪われたもので、人間の未来を予見し、それに向けて行動し準備するためには別の営みが求められると考えていた。また、人間の安寧を単に生産性、物質的な生活レベル、衛生状況、技術的な進歩という指標だけで判断するのは道徳的な破綻であるとも考えていた。1949年にジョージ・オーウェルが発表した "Nineteen Eighty-Four" で描かれた世界が現実のものになるのを恐れていた。現在の経済の状態、環境の問題を考える時、人類の進歩を単に経済成長のための技術応用という視点だけで規定するのは不十分ではないのかとする彼の考えは忘れてはならないだろう。

今を取り巻く問題は、文と理という文化の乖離と言うよりは、あらゆる領域に見られる専門化に対して、より広く理解しようとする精神の運動との乖離ではないだろうか。その根には教育があり、専門化が求められる社会に対応するために大学に入る時にはすでにこの現象が表れている。教育に今求められているのは、幅広い分野についての理解を深め、その限界を教えること。すなわち、自然科学ができることは自然科学に、人文科学ができることは人文科学に任せ、それ以上のことはしないことが大切になる。その意味で、スノーが提示した文と理の乖離は今なお現実のもので緊急を要する問題でもある。しかし、リーヴィスが問いかけた何が進歩なのかという人間的な定義も今そこにある問題になる。

Martin Kemp "Dissecting The Two Culture", Nature 459, 32-33 (7 May 2009)


-----------------------------------------------
このエッセイを読みながら、個人的な歩みを振り返っていた。ここで論じられている問題は私の中にも深く静かに流れていて、それが今に繋がっていることを改めて感じている。ここで特に注目したのは、科学が言うところの進歩とは一体何を意味しているのか、というリーヴィスの根源的な問いに対する答えを自らが模索しなければならないということだろう。それをさらに広く言うとすれば、あらゆる問題に対して提示された言葉の意味するところが本当は何なのかという哲学的な問いかけが求められていることになる。そして、そのような視点を備えた人物を多く抱えている文化は深みを湛えてくるのではないか、そんな想いが過ぎっていた。


Aucun commentaire: