vendredi 2 janvier 2009

研究環境が精神に与える影響



先日、八杉竜一著「近代進化思想史」(中央公論社、昭和47年3月)を手に取った時、「科学者の思惟の自由について」と題されたところに行き当たった。そこで触れられていることは、最近の私が体で感じていることと共通するところがある。そのポイントは、冒頭で引用されているメチニコフの次の言葉にすべて表れているだろう。メチニコフは言う。

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「実際において、前者(ビュフォン)がボネーと同様にかつて教授となったことなく、それに対してリンネが四半世紀以上も科学の教授者であったことは、興味がある。ビュフォンがいかなる学務の形式にも要求にもとらわれることなく、科学に対してきわめて自由な態度を持したのは、多分このことと関係があるのであろう。」

「講壇から科学を教授し教科書を書いた学者、したがって学派の形式に最大の影響を及ぼした学者の大多数が、ボネーやビュフォンよりもリンネやパラスに頼ることがはるかに多く、概して哲学的一般化よりも体系的杓子定規にいちじるしく傾きがちであったことは、疑えない。」

         メチニコフ著 「種の起原に関する問題の概要」(1876年)

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八杉氏の本では、大学に所属し権威の象徴であったキュビエとほとんど公的機関に属さずに研究をしたラマルクを対比させたり、在野を通したダーウィンを登場させて精神の自由が研究に及ぼす影響について語っている。若き日にダーウィンは家に相当の財産があることを知ってから医学に身を入れなくなったと書かれているが、それ以上に彼の中に物質や名誉に対する執着がなく自由人としての資質を持っていたことが彼の成功に寄与しているのではないかと八杉氏は考えている。

私自身の経験になるが、これまで公的な機関に所属して研究をしてきた時とそのような縛りのない今の精神状態が大きく違うことを感じている。現役の時には研究する上での精神の自由を必要以上に重要なものとして捉えていたつもりであるが、今からみると相当にきつい縛りがかかった状態であったことがわかる。その上で日頃考えていることは、もし今のような精神状態で生命科学の研究をしていたならば、全く違った研究対象や研究のやり方を選んでいたのではないかということである。具体的には、より面白い研究に仕上がっていたのではないか、あるいは独自性や独創性を生み出しやすい状況になったのではないかと思うことしきりなのである。もちろん何も変わらなかったかもしれないが、今のような精神状態での研究生活は理想に近いと思えるのだ。

このような視点から現代の科学を取り巻く環境を見てみると、果たしてその将来は大丈夫なのだろうかと心配になる。さらに現在の科学者が気の毒に見えてくる。それくらい自由な精神を維持しにくい状況にあるように見えて仕方がない。日本のいろいろな場所にオーソドックスなものに囚われない精神を持ったグループが群立するようになると研究の世界にも真の活気が出てくるのだろうが、、、


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