mercredi 7 janvier 2009

パウル・エーリヒとシガー


マルタ・マルクワルト著 「エールリッヒ博士の思ひ出」
(白水社科學選書、昭和18年1月、1円80銭:2007年、1200円)


週末、本を整理していたところ、これが出てきた。ポール・エーリヒの秘書として13年の時をともにした人が書いた回想録で、生身のエーリヒが浮かび上がる。昔の本はなぜか読みやすい上、興味深い逸話に溢れていたので一気に読んでしまう。主人公のパウル・エーリヒについては、この分野の方には説明の必要はないだろうが、専門外の方のためにこの本にあった経歴を簡単に触れておきたい。一言で言ってしまえば、19世紀から20世紀にかけての免疫学の巨人で、創造力あふれる理論のみならず実践面でも人類に貢献した最高レベルの科学者ということになる。

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1854年、シュレジアのシュトレーレンに生まれる。
その町の小学校、ブレスラウのギムナジウムで学ぶ。
その後、ブレスラウ、ストラスブール、フライブルグ、ライプチッヒの各大学で医学を修める。
1878年、ライプチッヒ大学卒業。ベルリンの慈善病院内科に入り、1885年には医長になる。
1884年、プロフェッソールの学位を受ける。
1887年、ベルリン大学講師、1890年には員外教授に。
結核研究中に感染し、エジプトで静養。
ベルリンに戻り、自費で研究室を建てるも満足できず。
1890年、ロベルト・コッホに招かれ、伝染病研究所に移る。エミール・フォン・ベーリングのジフテリアの血清療法に関与する。この時期に「側鎖説」の萌芽がある。
1896年、彼の才能を認めた政府がベルリン郊外に血清研究所を設立。ここで免疫の本質を見抜いた「側鎖説」が実ることになる。
1899年、実験治療研究所長としてフランクフルトに移る。
1908年にはノーベル賞受賞
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この本で初めて彼がシガーを無上の楽しみにしていたことを知る。私もたまに嗜むためか非常に近い存在に思え、嬉しくなっていた。上の写真でもシガーが彼の生活の中に溶け込んでいる様子が窺える。例えば、こんな具合で紹介されている。

「パウル・エールリッヒの唯一の道樂は、煙草と書籍であつた。彼の所謂《舶來》(ハヴァナ葉巻)は、フランクフルトに取りつけの店があり、そのほか、時をりフランクフルトとベルリンに一軒づつ注文する店があつた。彼の常用の煙草がつくと、その都度知らせるやうになってゐたが、それは自家用として煙草商の店に貯蔵させて置き、少しづつ取り寄せて、終始事缺かぬやうにした。一日少なくとも一回、時によると二回、一箱二十五本入り葉巻の箱を届けることになってゐた。それがいつもより十五分でも遅れやうものなら、使いが自轉車で駆けつけるまで電話のベルがけたたましくなりつづけるのであつた。《強烈な刺戟》の、その強烈さがどの程度のものであったかといふと、エールリッヒのハヴァナ葉巻が上等なのをよく知つてゐる同僚や友人は、よくほしがって貰ったものであるが、結局、それは普通の煙草のみを簡単にめまひをさせるものだといふことに衆議が一決したほどである。エールリッヒは、その葉巻を朝から晩まで放さなかった」

「《強い魅力》と云へば、エールリッヒにとつては煙草もその一つで、それは恬淡な彼の生活中に異彩を放ってゐる」

「巡回はおひるの一時ごろに終る、それを濟ませたエールリッヒが實驗治療の研究所とは、垣をめぐらした小さい庭を一つ距てたばかりのゲオルグ・スパイエル研究館からこちらへ歩いてくる姿は、未だに忘れられない印象として残ってゐる。左のこわきには例の二十五本入りの葉巻の小箱をしつかりかかへ、右手には眼鏡の大きい角製のつるをぶらぶらさせ、ぢつと正面を見ながら何かを考へ込んだ目附をし、冬でも帽子一つでオーヴァーも着ず、雨も雪も天氣の惡いのもまるで氣にかけぬ様子でやつてこられるその姿が ―― 」




この写真は実験室の中だと思うが、よく見ると彼の左手にはシガーが挟まっている。この手の写真は以前にも見ていた可能性があるが、この本を読むまで彼の手元は見逃していた。

序文によると、彼の生前には友人と崇拝者ばかりではなく、彼の業績を否定しようとする多くの敵と誹謗者を持っていたという。「いつの時代にも絶えぬ、嫉妬深い者ども、陰險なやから、或いは極端な否認論者ばかりに限ら」ず、「ごく真面目な人々の中にすら」彼の理論やその楽天的な態度を「疑惑の目で眺め、ことごとに反対することにつとめるやうなものがゐたのである」とある。著者のマルクワルトさんが勤め始めた1902年頃には「妄想博士」という綽名が付いていたという。偉人伝ではわからない彼を取り囲む現実を見る思いである。ひょっとすると、そのような俗世から離れたひとつの空間を彼の周りにつくるのに葉巻が大きな役割を担っていたのかもしれない。


彼はまた葉巻のほかに、何気ない素朴な自然を愛した。枯れかかったポプラの幹に生えた小さなミヤマナナカマド、若木、昆蟲、鳥の類などの。そして、ニーチェのこの言葉をよく口にしていたという。

「微かなるものすべて、かそけきもの、蜥蜴のかさこそ、息吹き、制止の聲、たまゆらの時、―― なべて微かなるものこそ快けれ!」



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