グレゴール・ヨハン・メンデル Johann Gregor Mendel
(22 juillet 1822 - 6 janvier 1884)
moine, botaniste Autrichien et le père fondateur de la génétique
(22 juillet 1822 - 6 janvier 1884)
moine, botaniste Autrichien et le père fondateur de la génétique
2008年 10月 25日
大学の講義でメンデルが遺伝の法則を明らかにした1865年の歴史的な論文を読む。ドイツ語で書かれた論文(Versuche über Pflanzen-Hybriden)の仏訳(Recherches sur des hybrides végétaux)だが、原典でも40ページ以上あり、現代の論文に比べると非常に長い。発表当時は全く注目を浴びず、35年間眠っていたものである。1900年に3人の学者が 独立に再発見して彼は遺伝学の父と言われるようになる。
3人の学者とは、オランダのユーゴー・ド・フリース、ドイツのカール・エリッヒ・コレンス、オーストリアのエリッヒ・フォン・チェルマク Erich von Tschermak。
これまでの私の中でのメンデルのイメージは本当に漠としたものに過ぎず、ブルノ Brno という町の修道院で一生を送った修道僧がよくぞこのようなことをやる気になり、それが大発見にまでつながったものだ、という程度のものであった。しかし、 彼がどのような環境にいて実際に何をどうやったのかを知るにつれ、目が開かされていた。
まず当時の修道僧の仕事は研究と教育であった。彼は修道院の中に閉じこもり、埋もれていたわけではなく、行動し、移動し、活発に活動していたことを知り、彼が急に生き返ってきた。ブルノの町もウイーンから100キロ程度しか離れていないので、文化的に隔離されていたわけではなかった。実際、彼はそのウィーンに出て、植物学、昆虫学、物理学(ドップラー効果で有名なドップラーの講義を受けている)を修め、細胞学説の大病理学者ウィルヒョーの話も聞いていたという。科学者としての基礎をしっかりと身に付けていたことがわかる。この論文の他にも気象学に関して13編物している。彼はドイツ語だけを話した。家が貧しかったために僧院に入ったようで、最終的にはその院長になっており、社会的にも重要な役割を担っていたものと想像される。
研究のテーマは交配によりいかによい種、新種を得るのかということであった。雑種は不安定であったので、安定性を得るための条件を探ることがテーマになっている。緒言ではこれまで研究してきた人について触れ、「疲れを知らない執拗さで」 とか 「こ れらの問題に人生を賭け」 などという文学的表現も見られ、今の科学論文とは様子が異なっている。ただ、それにもかかわらず 「すべてに例外なく当てはまる法則はまだ見つかっていない」 という言葉が出てきており、彼が法則を探そうとしていたことがはっきりとわかる。法則を見出そうとして目の前で起こっていることをただただ正確に記録し、その結果を説明しようとしている様が伝わってくる。そこには邪心が全くないかのようでもある。
宗教と科学の関係がよく問題になるが、この両者は両立しうることをメンデルは示していることになるのだろうか。メンデルの研究には数学的、統計的な手法が用いられているが、その初期の研究者とも考えられる。それがために当時理解されなかった可能性もあるだろう。歴史に残る仕事というのはしっかりしているものだと改めて感じ入る。
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