lundi 26 janvier 2009

ダーウィンの生涯


駒井卓著 「ダーウィン ―その生涯と業績―」 
(培風館) 昭和34年初版


2008年 09月 07日

学生時代に読んでいたこの本からの引用をいくつか。

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「自分の生活は時計仕掛けのようなものだ。固定されたところで終わりになるだろう」と自分で言ったとおり、彼の日課は、全く判で押したようなものであった。
  朝は早起きで、冬などは夜の明け切らない間に近所を一まわりする。帰って七時四十五分ごろひとりで朝食を取って、終るとすぐに仕事を始める。八時から九時半までが、一番元気のある、仕事のよくできる時間である。九時半になると、客間へ出て来て手紙を見る。もし親族などからの手紙があると、音読してもらって、長椅子の上で聞く。そんなにして十時半ごろになると、また書斎に戻って仕事をはじめ、十二時か十五分過ぎまで続ける。それで一日の仕事は終ったつもりになり、「よく仕事ができた」と満足げにいう。それから晴雨にかかわらず散歩に出かける。
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 午後三時ごろ、手紙が済むと二階の寝室に入って長椅子に横になり、巻きタバコを吸ったり、小説や科学以外の本を人に読ませて聞く。・・・四時半から一時間ほど仕事をする。そのあとで客間へ出て 来てしばらく何もせずにいて、六時にまた寝室に入って、小説を読んでもらったりたばこをすったりする。
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 夜はひどく疲れて十時ごろには客間を退き、十時半床に就く。しかしなかなか寝つかれないで、数時間も不眠に悩むことが多い。

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 書物などもいっこう体裁をかまわず、大きすぎて持ちにくいと、勝手に真ん中から半分に割ったり、論文などは不要の個所を破り捨てたりする。つまり彼の考えでは書物を道具の一種だと思ったのである。
  自分の仕事の参考に読むべきものは、あらかじめ一まとめにして棚の上に積み上げておき、読むにしたがってほかの棚に移してゆく。そうしながらいつまでも読めないものの多いことをよくこぼした。読み終わったものがたくさん積み上げられると、それからいちいち内容の書き抜きにかかる。そしてそれらを整理して紙鋏みの中に分類してしまっておいて、いつでも出せるようにした。
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 参考書からの書き抜きは、著書の中に自在に引用される。彼の書物を書くときのやり方は、いつもだいたいきまっている。書きはじめる時、かなり骨を折って全体の骨組みを作る。まず二、三ページに要領を書いて、つぎにそれを数ページまたは十数ページに広げ、さらに広げるというやり方である。それからいよいよ本式に書きはじめると、一気呵成に文章などかまわず書き流す。この時はたいてい古い原稿や校正刷の裏に乱暴に書く。それをさらに好い紙に一行あきに書き直し、存分に訂正を加えたうえで、人に写し取らせ、印刷所へ送る原稿 にする。

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「もし父の労作生活の特性を知ろうとならば・・・」
息子のフランシスは、父の追悼文の終わりにこう書いた。
  「かれが病弱のうちに勉強したことをつねに心に留めなくてはならぬ。それも自分で病苦を訴えることなくじっとこらえていたので、子供さえどれほど父が悩みとおしたかを知らないほどだった。・・・じっさい、母のほか、父の堪え忍んだ苦悩の全部と、その驚くべき忍耐の全部を知るものは、だれもいない。」

「とにかく私はここに繰り返していう。父はほとんど四十年の間、一日として常の人の健康を味わったことはなく、彼の生涯は、疲労と病苦に対する長期戦であったということが、その全部を特徴付けるものである。」

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「私には、例えばハクスレーのような賢い人にいちじるしい、事物をすばやく把握する能力も機知もない。それで私は批評家としてはだめである。人の論文や著書を読むと、初めはたいてい敬服する。よほど考えた後でないと、その弱点がわかってこない。私には長い純抽象的思索をやってゆく力はいたって乏しい。それだから哲学や数学をやっても、とても成功はおぼつかなかったと思う。」
「総決算して良い方の部に入るのは、注意を逃れやすいような事物に気がつき、それをこくめいに観察することにおいて、一般の人にまさっていると思う。また事実を観察蒐集するために勉強することは、ほとんど極度に達した。さらにずっと重要なのは、私の自然科学に対する愛好心が変わらず、しかも熱烈であったことである。」

「この単なる愛好心は同学の生物学者にほめられたいという野心でたいぶ助長された。わたしは少年時代から自分の観た事を何によらず理解したい、あるいは説明したい、すなわちすべての物をある一般法則の下に概括したいという強い願望をもってきた。」

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 ハクスレーは、ダーウィンの逝去を聞くとすぐに、つぎのような弔辞を『ネーチュア』に寄せた。

「ダー ウィンと対話するとソクラテスを思い出さずにおられなかった。どちらにも、だれでも自分より賢明な人を見出したいという願いがあり、道理の勝利を信ずる心があり、かつ、つねにユーモアを解する余裕があり、他人の身上や行いについて、関心をもった。ところがこの現代の賢哲は、自然界の問題を、理解の道がないとして捨ててしまうかわりに、ヘラクリツス(Heraclitus)やデモクリツス(Democritus)の精神をもって、これを研究することに生涯を 捧げ尽くし、その報酬として、予想が事実の影であったことを知りえたのである。」

「チャールズ・ダーウィンほどよく闘ったものはない。また、君ほど幸運であったものもない。君は偉大な真理がふみにじられ、狂信者から悪くいわれ、全世界から嘲られることを経験したが、幸いにもおもに君自身の力によって、その真理が科学界に動かない地位を得、人類の常識の一部になり、ただ少数のものが嫌い恐れ非難しても、実際には何事もないえないまでになったのを、その生前に見たのである。人としてこれ以上の望みがありうるだろうか。」
「ここまで思いをめぐらせてくる時、再びソクラテスの面影が期せずして現われ、その尊い『アポロジー』”Apology” にある終わりのことばが、ちょうどチャールズ・ダーウィンの決別の辞でもあるように、われらの耳に響くのである。
『去るべき時は来た、われらはわれらの道を行く。われは死し、なんじらは生くべく。どちらがよいか、知るは神のみ。』」





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